〜一人の少女〜

 私が堕ちた先、それは言うまでも無く……ここ人間界だ。ほんの数100万年前までは中界と呼ばれ、天界と獄界との間の障壁として存在していた界だ。今は、数万人の人間達が獄界からの『魔』に脅かされながら生活している。それも当然だろう。獄界に断り無く、中界を人間界に勝手に作り変えたのは天界の神なのだから……人間界は、人間と魔が互いに憎悪をぶつけ合う混沌とした世界なのだ。

 

 そして、逃れることの出来ない運命が始まった場所……生涯名を忘れることは無い、『ミルド村』。

 

 その村には『一人の少女』が暮らしていた。

 

 話を少しそこに移すことにしよう。

 

 ここは『ミルド村』。この村は人間界の北西部に位置し、鉱山のお陰で出来た村で、そこでは『鉄や銀、銅』などが採れる。普段は緑豊かでのどかな田舎村なのだが、今日は朝から嵐が吹き荒れ、夜の8時になっても未だおさまる気配はない。一度嵐が吹くと、海岸沿いという事もあって荒れ狂う自然の脅威にさらされる。ここに暮らす男達は皆が揃って鉱山で鉱石を掘り出す日々を送っている。鉱石を他の地域へ輸出するため、人の出入りには寛容で、おだやかながらも活気のある村だ。今日は激しい嵐だったが、男達は鉱山に潜り作業をすることを躊躇いはしなかった。『一人の少女』も、そんな鉱夫の娘として生まれ生活していた。

「お父さん、本当に帰りが遅いなぁ」

 時刻は午後8時。少女はレンガ造りの家で、帰りの遅い父を待っていた。いつもなら6時には帰ってくるはずなのだが……

「今日はちゃんと帰ってくるって言ったから、ご飯の用意して待ってるのに……この嵐のせいで帰れないのかな?」

 少女の名は『フィーネ』。まだ18歳にも満たない幼い彼女は、窓際の椅子に腰掛け……外を心配そうに眺め続けていた。

 窓に映る彼女は、長く美しい栗色の髪をたなびかせ、この世の闇を知らぬような優しく純粋な瞳は不安に染まっている。

 その心境を現すかのように暖炉の火はユラユラと動き、それによって作られる影もまた頼りなく見えた。

 窓の外は激しい嵐。雨と風が荒れ狂い、時折雷が轟く。彼女の住む家はそれによってガタガタと揺れていた。

「……心配だなぁ、お父さん大丈夫かな!?」

「……ドーン!」

 落雷だ!フィーネは、窓から微かに見える『丘』に雷が落ちると同時に、眩しさと轟音に包まれ思わず目を閉じた。

 落雷を受けた丘……それは、ミルド村から少し離れた所にある『ミルドの丘』である。普段は美しい緑に包まれた、心安らぐ丘なのだが強い嵐の吹く今日は、闇夜に浮かび上がる魔物のように禍々しくさえ見える。少しの時間が過ぎた後、フィーネは瞳を開いた。

「……ミルドの丘に落ちたみたい……でもびっくりしたぁ!」

 彼女は雷の眩さと音に心底驚いた。しかし、それも束の間……彼女の胸には再び父への不安が訪れた。

「……もう、お父さんのバカ!せっかく頑張って料理を作ったのに冷めちゃったじゃない」

 フィーネは父へ怒りを抱いてみたが、それもまたすぐに心配で掻き消された。その時だった!

「あれ!?丘の上がおかしい!光ってる!」

 彼女は『ミルドの丘』の上に光り輝くものを見た。村人が持つ松明などの光とは全く異なった光……今まで見たことの無い光景だった。

「……もしかして……『魔物』!?」

 彼女は初めて見たものを魔物と認識してしまった。無理もない。その光は人間界には存在しないものなのだから。

「……どうしよう……もしかしたら、人が襲われてるのかもしれない!?……でもこんな時にお父さんはいないし」

 フィーネは考えた。しかし、心優しい彼女には決断の時間はそう必要ではなかった。

「……私に力はないけど、もしかしたら助けを求めてる人がいるかもしれない。行こう!」

 彼女はすぐに、身支度を整え始めた。今着ている服は紺色のワンピースで生地は厚手の綿だ。それを、腰の上でベルトを通している。その上に彼女は皮のコートを羽織った。外は強い雨と風。今の季節では暖炉の火がないと生きられない程に寒い。だから厚着をしないと、すぐに体熱を奪われてしまう。さらに、彼女は壁にかけてあった剣を手に取った。重い……その剣は細腕の彼女には辛い重さだったが、魔物に遭遇するかもしれない以上、武器は必要だ。そして、雨避けを付けた金属製の松明を持って家の外へと踏み出したのだった。

 

〜ミルドの丘〜

 話は戻るが、私はまだ先刻の衝撃で意識を失ったままでいた。ここから先、私が目覚めるまでの話はリバレスに聞いたものだ。天候は、空から落ちてきた時と同じ……ひどい嵐だった。視界は遮られ、風のせいで音も聞こえない。あれからしばらくの時間が経過して、私は気を失っているだけだと気付いたリバレスはある程度落ち着いていた。

「……うーん……やっぱり、ルナを助けるためとはいえ、光で信号を出すのはまずかったかしらねー?ルナは気を失ってるだけだし、わたしが一人でなんとかした方が良かったかもー」

 リバレスは、さっきの光の柱を出した事に少しばかり後悔していた。もし、悪意を持った人間や『魔』が現れたら困りものだからだ。

「……まーいっか。わたしの力でも、人間ぐらいなら何とかできるしー……あっ!誰か来た!」

 一人……人間の少女の姿が遠目に確認できた。距離にして500mぐらい向こうだろうか?少女はまだこちらに気付いていない。それもそのはずだ。リバレスは天使よりも若干能力は劣るが、それでも天翼獣。人間の数百倍の能力を持っている。この視界の悪さでは、向こうがこちらに気付くのにはまだしばらくの時間が必要だろう。

「……人間の女みたいねー……助けてくれるかしらー?」

 さらに少女は近付いてきた。そろそろ、こちらが見えてくる頃だ。

「うーん、ルナは天使とはいっても、堕天のせいで見た目は人間の姿と変わらないからいいけどー……わたしの姿を見られるのはちょっとまずいわねー!」

 そう一人で呟くと、彼女は一つの決断をした。

「そうだ、『変化』の神術を使えばいいんだわー!わたしって頭いいー!」

 その言葉と共に、リバレスは私の指輪へと変化した。そして、彼女は私の右手薬指へとおさまった。

『変化』の神術。それは天翼獣のみが使う、様々なものに姿を変えられる神術だ。

「(これで、人間が来ても怪しまれないわー)」

 こうして、私は行き倒れの姿で少女に発見されることとなる。そして、その時は訪れた。

 

「……あっ!大丈夫ですか!?」

 

 右手には剣を、左手には松明を持ち、長い髪を雨風に乱れさせながら、コートを纏ったその少女は私の元へと近付いた。

「(この人間……剣を持ってるじゃないのー!?もし、ルナに危害を加えようとしたら許さないからねー!)」

 そのリバレスの不安とは裏腹に、少女は剣を投げ捨てて私の体を抱き起こした。

「大丈夫ですか!?しっかりして下さい!」

 少女は、私に向かって大声で叫んだ。しかし、意識の無い私が答えるはずもない。

「……大変!この人、意識がないし……それより、ひどい怪我!家に連れて帰って手当てしなきゃ!」

 少女は私を気遣い、私の腕を肩に担ぎ懸命に家まで運ぼうとした。しかし、人間の女が男の私を運ぶのは容易な事ではない。不幸中の幸いなのが、天使といえども体重や姿は人間とさほど変わらないことだった。少女は重い足取りだが、渾身の力を込めて嵐の中をゆっくり……だが着実に進んでいく……

「(……うまくいったわー。何とか助けてくれるかもしれないわねー……それに、この女が何か企んで、ルナに万一の事がありそうだったらわたしがこの人間を殺せば済むことだしねー)」

 リバレスの『人間』への冷徹な感情を少女は知る由もなく……こうして私は、まだ名も知れぬ少女に担がれ、ゆっくりと彼女の家へと導かれていったのだった。

 

 

 そう……これが、私達の始まりだったんだ。

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