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 雪那が家を出発するこの日、彼女達が住む地方は、この冬一番の豪雪に見舞われた。交通機関は辛うじて動いているが、いつ止まるか解らない。雪那は電車を二時間乗り継ぎ、空港に向かわねばならない。飛行機で大学がある都会に向かい、前泊するからだ。

 本当は昼過ぎに出発する予定だったが、電車の遅延を考えて雪那は午前十一時に家を出た。緋月は高校に登校しているが、電車に乗る前、彼からメールが来た。

「雪那なら、いつも通りやれば絶対合格出来る。俺は心配してない。だから、雪那も何も心配せずリラックスして試験頑張れよ!」

 この時間……、授業中なのに。先生に見付かって怒られても知らないからね。

 ……まだ、そんな事を思う余裕があるんだな、私。

 雪那は携帯を閉じ、メールは後で書く事にした。今返信したら、また返信が返って来そうだからだ。彼女は大荷物と共に電車に乗り込んだ。

 座席に座る雪那。彼女の顔は蒼白だ。血の気が無く、まるで人形のように。

 

「此処じゃ無い」

 

 雪那はそう呟いた。暖房の効いた電車に揺られるにつれて、雪那の顔に生気が蘇る。携帯を開いて時間を確認し、雪那は緋月への返信を書き始める。

「緋月、ありがと」

 其処まで文字を打つと、彼女の手は止まった。手が小刻みに震えている。やがて、その震えは全身に広がり、彼女は返信を諦めて携帯を閉じた。

 

 無理だ。何も書けない。だって、何を書いても緋月は……

 

 雪那は目を閉じ、歯を食い縛る。今にも涙が、堰を切って溢れ出しそうだったからだ。彼女は、自分の周りに人が居ない事に感謝した。

 駄目だな。私はまだまだ弱い。緋月の(つよ)さの半分でも私にあれば、こんなにも震えなくて済むのに。少しでも力を抜いたら泣きそうだよ。

 

 雪那にとって、無限とも思える一時間が過ぎ、電車は乗り換えの駅に到着した。ダイヤより数分遅れたが、殆ど雪の影響は受けていないようだった。

 乗り換え待ちの時間が三十分程あったので、雪那は売店に寄った。食欲は全く無かったが、温かい飲み物が欲しかったからだ。

 甘くて濃いミルクティーを飲もう。あれ、これは?

 雪那は、缶のミルクティーが置いてある棚に向かう途中、菓子コーナーの中で一際カラフルで特徴的な形を持つお菓子に目を奪われたのだ。

「懐かしいなぁ」

 雪那は思わず声を上げた。雪那が見付けたのは、袋に詰まった金平(こんぺい)(とう)だった。小さい頃、緋月と一緒によく食べていた事を彼女は思い出す。

 緋月も私も大好きだったな。柊がねだって困った事もあった。でも最近は、こんなお菓子がある事も忘れていた。

 彼女は、迷わずレジにミルクティーと金平糖を持って行く。今の雪那にとっては、それで十分だった。

 

 雪那が、金平糖を数粒頬張りながらミルクティーを飲み干した後、電車が甲高いブレーキ音を立てながらホームに到着した。電車は四両編成で、乗客は各車両に数名程度しかおらず、此処から乗る者も数える程しか居ない。雪那と同じ受験生と思しき学生も居た。彼女は空き缶をゴミ箱に捨てた後、前から三両目に乗り込む。その瞬間、彼女は大きく目を見開いて息を呑んだ。

 

「此処だ」

 

 雪那は、眩暈と同時に吐き気を覚えて手摺(てすり)を掴む。彼女は文字通り、目の前が真っ暗になった。そして、視界が鮮明になった時には、既に電車は出発していた。

「あなた、大丈夫?」

 人の良さそうなおばさんが、いつの間にか私の目の前に居た。私は頷いて、座席へと歩く。二人掛けの席が向かい合った、「ボックス席」に座った。

 やはり、逃れられないのだ。「永遠」が私に見せたのは、運命なんかじゃ無い。純粋に、私が辿る未来なのだ。

 

 私は、此処で死ぬ。電車が事故を起こして。

 

 緋月の家に泊まりに行った日から、私は自分の死が近いのは予感してた。夢の光景から察するに、普段乗らない電車の中と言うのも解った。だから、受験の為に乗る電車なのだろうと想像出来た。今自分が座っている椅子は、夢の中に出て来た椅子と全く同じ。唯一つ夢と違うのは……、窓。窓の向こうが雪景色で真っ白なのだ。夢では漆黒に塗り潰されていた。もしかしたら、事故に遭うのは受験からの帰りかも知れない。

 雪那は、左手薬指の指輪に唇を寄せた後、右手でギュッと包んだ。握った右手が震え、目元が滲んでいる。

 

 緋月、怖いよ! 死ぬのが怖い!

 

 雪那の両頬を紅涙(こうるい)が伝う。彼女は窓の外を見て、他の乗客に気付かれないようにしたが、やがて窓に映る自分の悲壮な顔に気付き、涙を拭った。

 もし私が受験会場に向かわなければ、死ぬ事は無かったかも知れない。でもね、私は見たの。私が死んだずっと後の緋月を。向日葵畑で全身を絵具(えのぐ)(まみ)れにしながら、私の絵を描いてくれている緋月を! それを見たらね、私は何て幸せ者なんだろうって思った。そして、緋月はちゃんと私の死を受け入れて生きてくれてる。死んでしまう人よりも、その人を想いながら生きる人の方が辛いのに。だから、私も自分の死からは逃げない。怖いけど、逃げちゃ駄目なの。

 

 本当はね、あの夜、緋月と結ばれたかった。昨日だって緋月の家に行きたかった。でも我慢したの。緋月に私の熱を伝えれば伝える程、緋月の悲しみが深くなるから。

 

 暫くして、電車はトンネルに入った。夜の帳が下ろされたかの如き、漆黒の闇。

 そうか、トンネル……。私が見たのは、トンネルの中の光景だったんだ。もう、私には時間は残っていない。

 雪那は携帯を取り出す。まだメールの返事は書いていないが、もう書くつもりは無い。携帯を開き、彼女は着信履歴の画面を開いた。通話ボタンを一度押せば、緋月に繋がる。電波は受信出来ず圏外だが、トンネルを抜ければ掛けられるだろう。

 緋月、最後の私の我儘許してね……。どうしても、声が聴きたいの!

 トンネルを抜けて、窓の外が真っ白になる。携帯が電波を受信した。雪那は直ぐに、通話ボタンを押す。その時だった。

 電車が大きく左右に揺れ始めたのだ。普通に線路を走っているなら、こんな揺れは有り得ない。電車の中に、乗客の半狂乱の声が響く。

 雪那は固く目を(つむ)り、両手で携帯を握り締める。電車が傾き、耳を(つんざ)く轟音が(こだま)する。その中で、携帯は静かに緋月を呼び出していた。何も知らずに、午後の授業を眠たげに受けている緋月を。

 

「ドォォーン!」

 

 一際大きい、何かが壊れるような音がした瞬間、雪那の体は宙を舞った。前の椅子に、天井に、床に猛スピードで叩き付けられ、最後に窓硝子を割って外に飛び出した。

 

 皓々と煌く雪に、紅の華が咲いた。

 

 鮮血に染まる雪那は、まだ携帯を握り締めている。だがもう体は動かず、意識も闇に消えそうだった。緋月は電話に出ない。だが、緋月の声が確かに携帯から聴こえた。

 

「ごめん、今ちょっと電話に出られません。掛け直すけど、念の為要件をどうぞ」

 

 留守電でも、緋月の声が聞けて良かった……。もう思い残す事は無いわ。声はもう出せないかも知れないけど、どうか少しだけ私に喋らせて。

 

「緋月……、あい……、してる。ずっと……、ずっと」

 

 もう目が見えない。音も聴こえない。でも、もう少しだけ!

 

「悲しまないで……、緋月は……、自分の……、人生を生きて」

 

 伝えたい事は山程ある。でも、もう時間だ。贅沢は言えない、後一言……

 

「また……、必ず……、逢えるから……、ね」

 

 紅の華は更に大きさと美しさを増し、雪那の命の灯火は完全に消えた。しかし、もう動く事の無い彼女の顔は安らかだ。意識が消える最後の瞬間に、凍り付いた大地と其処に居る人間の姿が脳裏に浮かんだからだ。

 雪那の死を悼むかのように、真っ白な雪が降り注ぐ。辺りは完全なる静寂に包まれていたが、やがて彼女の携帯が鳴った。だが、その電話を取る者はもう居ない。

目次 第一章-20