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 雪那を含む、死者と負傷者が病院に搬送されたのは夜になってからだった。事故現場は連続したトンネル地帯であり、車両の進入は容易では無く、ヘリでの救助に頼らざるを得なかった為だ。

 駆け付けた緋月と雪那の両親に、医師は沈痛な面持ちで雪那の状態を説明した。雪那は、全身を強打して内臓を損傷し、外傷による出血も激しく、即死だっただろうと。

 雪那の母が泣き崩れる。雪那の父も、彼女の肩に手を置き無言で泣いていた。緋月は、雪那からの電話を受けて声を聞いていたので、彼女の死など到底信じられずに、真っ先に霊安室に入った。

 

 其処には、有無を言わせぬ厳然たる「死」があった。ベッドに横たわっているのは最早雪那という温かみのある人間では無く、彼女の顔をした人形に見える。体には真っ白なシーツが掛けられ、見えるのは顔と両手だけだ。緋月はそれを見てもまだ現実とは思えなかったが、彼女の左手薬指に光る指輪を目にした瞬間、感情と涙が濁流となって溢れ出した。

 

「雪那……、雪那ぁぁ!」

 

 緋月は、雪那の左手を両手で握る。しかし、彼女の手はまるで固まった雪のように冷たく、緋月の熱を奪う。雪那の手は温かみを取り戻す事も、緋月の手を握り返す事も無い。彼はそれに気付くまで、何度も何度も雪那の名前を叫び続けた。声が(かす)れ、視界がぼやけて何も見えなくとも。

 

「俺の所為だ! 俺が都会に出て、美大に通うなんて言ったから。だから、雪那は……」

 

 緋月はそう叫んだ後その場に崩れ落ち、リノリウムの床を拳で叩き始めた。

 絵なんて描かなければ良かった! 俺が絵を好きになったのは、雪那が俺の絵を褒めてくれたからだ。小学校で、たまたま金賞を取った絵を、誰よりも喜んでくれた。それで俺は、雪那を喜ばせる為にもっと絵を描くようになった。なのに、絵を描く道を志した所為で雪那は死んだ!

「緋月君の所為じゃ無い! 雪那は、音大に入る事を自ら望んでいた。だから、自分を責めるのは止すんだ」

 雪那の父が緋月の前にしゃがみ込み、緋月の両肩を掴んだ。その力は痛みすら覚える程強く、緋月は雪那の父の目を見詰めて口を閉ざした。

 雪那の父の目は異様だった。底知れぬ絶望と怒り、そして雪那への愛情が作り上げた混沌に満ちている。狂気と言っても過言では無いその目の威圧感により、緋月は正気を取り戻して立ち上がる。だが、そうなると再び喪失の痛みが彼を襲う。

 

「雪那ぁぁ……」

 

 もう、何も見えない。真っ暗だ……。俺は、雪那と一緒に居る未来しか考えて無かった。会える日を楽しみに、大学も頑張ろうと思ってた。二人共都会に出てるんだから、お互いの家に泊まりに行くのも自由だと思ってた。大学を卒業して、俺が一人前の社会人になったら結婚を申し込むつもりだった。俺は画家になる前に、自分と雪那が食べていく分ぐらいは稼がないとって考えてた。

 

 全部、雪那が居る事が前提なんだ。

 

 まさか、雪那は自分が死ぬ事を知っていたのか? 否、そんな事は有り得ない。知っていたなら、死から逃れられた筈だ。

 俺はこれからどうすればいい? いつもみたいに教えてくれよ!

 

 雪那は何も答えない。その代わりに微笑んでいた。安らかに、何の不安も無いかのように。其処には、苦痛も後悔も未練も存在しない。同時に、喜びも希望も夢も無い。

 眠っているように穏やかな雪那は、唯微笑みを浮かべていた。

 

 誰がどれ程悲しもうと、時は確実に過ぎる。翌日には雪那の通夜が、その次の日には葬儀が行なわれた。緋月も雪那の両親も殆ど眠っていない。眠れる精神状態で無いのは確かだが、それよりも雪那の姿を一秒でも長く目に焼き付けておきたかったからだ。

 葬儀が終わり、雪那を火葬場に運ぶ時が訪れた。雪那の両親、親戚、そして緋月と彼の家族が其処に向かう。

 

 正直に言うと、実感が無かった。火葬の前に雪那の顔を見た時には、俺の中で悲しみがあったのに、火葬が終わって白骨になった雪那を見ると、それが雪那には見えなくて、自分が何を考えればいいのかさえ解らなかった。真っ白な破片……。最後まで雪那は白が好きなんだな、とか馬鹿げた事を考えた。

 

「ひー君、お願い。雪那の分まで生きてあげてね」

 

 おばさんが嗚咽(おえつ)交じりにそう言ったから、俺は頷くしか無かった。そして遺品だと、俺が雪那にあげたペアリングが返って来た。一人なのに、何でペアリングなんだよ。俺は、雪那の家からの帰り道に自嘲気味に笑った。

 悪い夢だ。早く醒めてくれ……

 俺の人生に雪那が居ない? 冗談だろ。帰って寝たら、また明日には雪那に会える。

 緋月が自宅のドアを開けると、柊が飛び付いて来た。柊はその後に直ぐ、緋月の後ろを捜し回る。昼間に緋月が帰って来る時には、殆ど一緒に居る人を。

 

「柊……、もう雪那は居ないんだ」

 

 緋月の言う事が解る筈も無く、柊は尻尾を振りながら雪那を捜す。子犬の頃から、いつも自分と遊んでくれた雪那を。

 緋月は柊を抱き上げる。そして、声を上げて泣いた。物心が付いてから初めて、誰の目を気にする事も無く、大声で泣いた。

 

 雪那の死を、緋月が受け入れた瞬間だった。

目次 第二章-1