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 天に向かって聳え立つ断崖の塔。この灯台の中には螺旋階段があり、紡樹は風音の手を引きゆっくりと上って行く。灯台の内部は、回廊や窓から差し込む光が織り成す複雑なモザイク模様に彩られ、遠退いた潮騒と相俟ってこの空間はひどく神秘的な空気に満ちている。二人は回廊に出ると、手摺にもたれかかって遥か水平線に視線を移した。再び潮騒がはっきりと聴こえるようになり、その穏やかな響きは二人の隙間に入り込んで、あらゆる不要な言葉を拭い去った。

 潮風が風音の髪を揺らすと、彼女は紡樹の方を向いてから一旦大きく息を吸い込み、これまでに胸の中で何度も迷い反芻して決めた事を初めて口にした。

 

「私ね、『あの人』に会いに行こうと思うの」

 

 自分の行動を思い返してみると、風音は手紙を最後まで燃やせなかった時点でそう決めていたのだと気付いた。目の前が真っ赤になるぐらいの怒りと憎しみを感じていたのに、彼女は心の底から救われたような気がしていた。自分が本当は必要とされていたという事実によって救われたのでは無い。あの手紙をシンクに投げた瞬間彼女は両親を赦し、それによって彼女の枷は外れたのだ。

 風音の言葉を聞いた紡樹は風音と暫く視線を合わせると、軽く一度そして大きく一度頷きながらまた海の方を向いた。

「そうか、やっぱりな。さっき風音の話を聞いてる時にそう言うだろうと思ってた」

「お見通しだった?」

 風音がそう訊くと紡樹はもう一度静かに頷いた。それから二人は再び海へと視線を向け潮騒に耳を傾け始める。

 無心に潮騒の音を聴いていると、やがてそこに空気を裂く低音が混じり上空を飛行機が通った。二人は飛行機雲がそれを何処までも追っていくのをじっと眺めていたが、飛行機のエンジン音は潮騒に消え姿も見えなくなった。

 またこの世界には二人だけになり、紡樹は海の煌きに目を細めながら口を開く。

「もし嫌じゃなければ、俺も『その人』の所に一緒に行っていい?」

「どうして?」

 ――どうして私の生みの母親に会いに行きたいの? 私だって顔すら覚えていないのよ。その人に会って私はどんな気持ちを持つかも分からない。もしかしたら取り乱すかも知れない。貴方はきっとそれも分かってる筈なのに。

「風音が会いに行きたいと思ってる人だから。それに――」

「それに?」

 風音がそう訊き返すと、紡樹は目を見開いて動揺し口を閉ざした。自分に風音の真っ直ぐな視線が注がれている事に気付くと彼は頭を掻いてから深呼吸した。

「今は秘密。また今度話すよ」

 微笑みながら話しているこの秘密は、間違いなく自分にとって良い秘密だと風音は理解する。だからそれ以上は訊かない。

「約束よ。でも、一緒に行くかどうかは少し考えさせて」

「分かった」

 風音は幼い少女のように屈託無く微笑む。紡樹は彼女を愛おしそうに抱き寄せると、瞳を閉じてそっと口付けをした。

 

 幾度か風が頬を撫でるのを感じた後、紡樹はゆっくりと目を開いた。その瞳には揺らぎの無い強い決意が浮かんでいる。紡樹は抱き寄せた風音を少し体から離し、二人は何処までも広がる海を横にして向かい合った。

「風音、俺からも話がある」

 彼が風音の目をしっかりと見詰めながらそう言うと、風音は目を逸らす事無く頷いた。それを確認して、紡樹は自分の想いを極力正確に伝えるように一言一言に時間を掛けて話し始めた。

 

「風音は気付いていたと思うけど、俺は自分で自分の命を断とうと思っていた。

 正確には生きていくのが苦しくて苦しくて、それから逃れるには死ぬしか無いと考えていたんだ。俺は苦しみから逃れたくて、心の中に俺の制御が及ばない禍々しい自我を生み出した。そして俺はその破滅を望む自我に支配されて風音に手を掛けようとしたんだと思う。もしあの時風音が微笑み掛けてくれていなかったら、俺は本当に風音を殺していたかも知れない。そして俺は風音をそれ以上傷付ける事に耐えられなくなり、自分の命を出来る限り早く終わらせる事を決意したんだ。

 

 風音と離れ、俺はこの国を出て砂漠の街へと赴いた。

 

 それでも俺は数日間命に縋っていた。もしかしたら、死なずに済む方法があるかも知れないという僅かな希望を胸に抱いて。けどその灯火も直ぐに消え、俺は強い陽射しと乾燥の中、死ぬ為に砂漠を歩いた。

 出発する時には死ぬ事しか考えていなかった。生きて帰る事なんて全く頭に無かった。なのに、激烈な渇きに苛まれリアルな死を目の前にした時、俺は自分が本当は生きたかったんだと気付いたんだ。

 そしてその時、俺の心の中は風音に会いたいという想いで一杯になった。もし生きて帰れたら、そして風音が赦してくれるなら、俺は風音を傷付けた分一生守っていこうと誓ったんだ」

 

 紡樹は其処まで話すと肩を震わせ一雫の涙を落とした。風音はその涙には気付かない振りをして静かに頷く。彼女は彼に手を差し伸べようとするかのように右手を少し上げたが、まだその時では無いと感じたのか名残惜しそうに手を下ろした。

 

「それからは、俺は生きる為に歩いた。何の根拠も無かったけど歩き続ければ生きられる気がしていたからだ。そして夜になって俺は岩場に辿り着いた。其処には雨水が溜まっていて、俺はそれを飲んで生き永らえたんた。

 俺は生かされている。遥か太古から輝き続ける星々が照らす闇の底で、はっきりとそう感じた。そして凄まじい疲労と眠気で眠りに落ちる直前、風音の温かな想いが確かに俺に『触れてくれた』。あの感覚は夢なんかじゃ無くて、本当に風音が俺の所まで来てくれたみたいだった。あれ程の安らぎを感じたのは生まれて初めてだったよ」

 

 紡樹が其処まで話し終えると、風音は彼の背を抱きながら声を出さずに泣いた。それはまるで、時間と想いを実際に共有していたという奇蹟と僥倖が彼女の心を満たし、それでも溢れるものが瞳から零れ落ちているかのようだった。

 

「紡樹、私も誓ったの。貴方が帰って来たら、私は貴方の支えになろうって。私は紡樹が居てくれたから自分を認める事が出来て、生きる事も悪くないって思えた。

 月が綺麗だったあの夜、私は紡樹が私に手を掛けようとする前から起きていたけど、貴方になら殺されても構わないって思っていたわ。紡樹に出逢うまで、私は数え切れないぐらい死ぬ事を考え望んで来た。だから私は幸せを与えてくれた貴方になら命を奪われても良いと思えたの。貴方が其処まで苦しみ、追い詰められているなら私は貴方の思う儘になろうって。

 

 でもそれは間違っていたわ。

 

 私は、一歩も動けず蹲って苦しんでいる貴方をそのまま受け入れるんじゃ無くて、手を引いて起こさないといけなかったの。私は今まで貴方の心に深入りし過ぎないように注意して、主張に反対する事も殆ど無かったわ。それは、私が貴方に嫌われたくなかったから。貴方を失う事を恐れていたからなの。

 でもこれからは私はもっと強くなって、貴方が苦しんでいる時にはどんなに嫌われても貴方を助ける。紡樹は死の淵まで追い詰められたのに帰って来たのに、私だけ弱いままじゃ駄目でしょ? 

 きっと私達はまだまだ未熟だと思う。だから二人で支え合って歩んで行こうね」

 

 その言葉に紡樹は深く頷き、風音を強く抱き返した。

 

 何処までも高く透明な空を満たす潮騒に、つがいのウミネコの声が混じりやがて遠ざかって行く。潮の薫りを乗せた風が海から陸へと吹き二人の髪を揺らした。その風の一部は天へと昇りこの星を巡るだろう。

 この世界は何処から来て、何処へ行くのかも分からない。

 だが永遠を吹き渡る風は、常に今を生きる者の傍らにあり想いも願いも苦しみも喜びも全て運んでくれる。そして未来は少しずつ紡がれていく。

 紡樹と風音は海に背を向け、手を繋いで歩き出した。光と影が鏤められた灯台の中で、二人の胸元の蒼い石は唯静かに煌いていた。

 

 彼等は灯台を出て、眩い光の中に一歩一歩足跡を刻み始める。

 頬を撫でるような柔らかな風が、そっと桜の薫りを運んで来た。

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