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 光で温められた春風の中を、風音が運転する車が疾走していく。助手席に沈み込む紡樹は、真っ直ぐ前を見詰める風音の横顔に時折優しい眼差しを送っている。暫く走っていると二人にとって見慣れた道が現れた。何度通ったかも分からない、紡樹の家と海辺を結ぶ道だ。風音はようやく日常の中に紡樹が戻って来てくれた事を実感し、深く安堵する。道路は混雑する事も無くスムーズに流れており、二人は思い出話をしながらも確実に海に近付いているのを車外の風景から感じている。だがある交差点で信号待ちをしていると、紡樹は道路の脇を注視したまま沈黙した。

「どうかしたの?」

 紡樹の視線を辿ると、歩道に佇む道路標識がありその根元に花束が置かれていた。それは白いアマリリスの花束だったが、その中に数本八重桜の蕾が付いた枝があった。蕾の先端では押し込められて窮屈そうな花弁が顔を覗かせ、開花が近い事を物語っている。

「何でもないよ」

 紡樹はそう言ってから風音に向かって静かに微笑んだ。風音はそれ以上問い質す事はしなかったが、花束に込められた想いを理解しようと思索を巡らせ始める。

 

 ――あの花は、きっと交通事故の犠牲者に捧げられたもの。そしてこの場所に花が置かれたのは初めてでは無くて、紡樹は以前にもそれを見た事があるのだろう。

 手向けの花束は想いを風に乗せて死者へと届け、同時に今を生きている者に慈しみを与えてくれるのだと思う。人は誰もが生きる事に真摯で、真摯であるが故に自ら死を選ぶ人も居るけれど皆精一杯生きる。そして命は紡がれ未来へと繋がっていく。

 まだ具体的には想像が出来ないけど、私も紡樹もいつかは死ぬ。それを目の前にするときっと私達は深い苦悩と絶望の中に落ちるだろう。何の為に生きて来たのか、何故死ぬのか。そんな考えが何度も何度も頭を巡り、明確な答の無い思考の螺旋に囚われる。昨日を取り戻せない事を嘆き、徐々に弱っていく肉体と精神を抱えながら最後は灰になるのだ。

 でもそれが生きるという事だ。

 大空を見上げて風を感じ、目を閉じても見える程の強い光を見れば、自分が生きている事を実感出来る。それだけじゃ無い、誰かの心からの願いによって「生かされている」事が分かる。例え最後は灰になりこの星を巡る風になったとしても、私達は「生きていく」のだ。

 

 信号が変わり風音はアクセルを踏んだ。それから海辺の灯台が見えるまでの時間、二人は余り言葉を交わす事が無かったが、車内には居心地の良い空気が満ちている。時に言葉は彼女達が共有している想いを飾る為のものでしかなく、そんな時には言葉を発する程に想いは希釈されていく事を彼女達は知っているからだ。

 

 断崖に佇む白亜の灯台近くに車を停めたのは正午を少し回ってからだった。二人は車内で途中のコンビニで買ったおにぎりを頬張り空腹を満たす。

 二人が車を出るとドライブウェイ脇に植えられた桜から無数の花弁が舞い、仄かな薫りが彼女達を包んだ。その薫りを胸一杯吸った風音は、紡樹と作ってきた沢山の思い出が鮮烈に蘇り目元が潤むのを感じる。この場所に長く留まったら本当に泣き出してしまいそうなので、風音は紡樹の手を引いて小さな砂浜に続く階段へと急いだ。

 白い砂が敷き詰められ、足元に目を凝らすと星の砂を見付けられるこの小さな砂浜は余り人に知られて居ない穴場で、紡樹が大学の部活の先輩に教わった場所だった。いつも人が少なく他に誰も居ない事が多いので、風音はこの場所で紡樹によく「今日は二人占めだね」などと嬉しそうに語っていた。

 だが今日は先客が居た。波に洗われて平坦になった砂の上を駆ける小さな男の子と、耳と胴の長いよく吠える子犬、そしてそれを眩しそうに見詰める風音と同じぐらいの年の女性だ。風音達が海へと近付くのに気付いた女性は男の子を自分の元に呼び寄せて、風音達に会釈をした。やがて手を繋いで歩く風音達と女性達との距離は縮まり、潮騒よりも互いの声が大きく聴こえるようになった。子犬が嬉しそうに何度も吠えて四人の周りを回り続けている中、紡樹が最初に女性達に声を掛ける。

「こんにちは」

 軽く頭を下げながら女性にそう声を掛けると、彼女は遠慮がちな笑みを浮かべ自分の背中に隠れている男の子を自分の横に連れ出しながら挨拶を返す。

「こんにちは。ほら挨拶は?」

 女性がそう促すと、男の子は体の半分を彼女の後ろに隠し、はにかみながら殆ど聞き取れないような声で「こんにちは」とだけ言った。そこで風音は男の子の方に近付き、中腰になりながら彼の頭を撫でる。そして風音が「こんにちは」と声を掛けると今度は彼は大きな声で嬉しそうに挨拶を返し、自分の名前を名乗った。それを見て紡樹と女性は笑い、その後で風音と男の子も笑った。

 風音と紡樹が手を繋いだまま波打ち際に近い砂の上に腰掛けて暫くすると、母子は手を繋いで帰っていった。子犬はこちらの方を何度か振り返ったが、やがて母子の先を走っていった。

 この砂浜に居るのが二人だけになった直後、二人はどちらからともなくお互いの顔を見詰め合い口付けを交わした。それは長く深い蕩けるような口付けで、二人が離れて苦しんでいた時間だけでなく、今まで生きて来て心に穿たれた穴さえも隅々まで埋めていくように濃密だった。

 

 ――私達は生かされている。

 そして私達は誰かを生かす為に生きるのだ。命は紡がれ、紡がれた命はまた新しい命を紡ぎ出す。そうやって、私達は過去から受け継いだ想いに私達自身の想いも込めて、永遠と言う名の風に浮かべる。

 私と紡樹も共に生きていく中で、新しい命を育んでいく事になるだろう。それはとても大変な事だと思うけど、私達も今まで生かされて来たんだからきっと大丈夫。でも、その前に私は紡樹に私の生い立ちと紡樹と出会う前について話そう。一緒に手を取り合って、未来を歩んでいく為に。

 

「ねぇ、紡樹」

 風音は手を繋いだまま、海を見ている紡樹の横顔に甘えるように声を掛けた。

「ん?」

 紡樹は少し首を傾げ、何処までも澄んだ風音の瞳を見詰める。

「話があるの。遠い……、昔の話」

 紡樹がはっきり頷くと風音は静かに自分の持つ記憶の最初から順に話し始めた。

 

 今の両親は本当の親では無い事、施設に捨てられた事、自分を否定し続けた長い年月。彼女は、それらを何度か目元を潤ませながらも気丈に話し、紡樹は決して先を急がせず黙ってそれを受け入れた。

 風音が実の母から手紙を受け取った事を話し、一筋の涙が頬を伝った時、紡樹は風音をしっかりと抱き締めて背中を擦った。

 

 風音の涙が消えて微笑みが浮かぶまで待ち、紡樹は彼女に「灯台に上ろう」と言った。

 春の光を受けて真っ白に輝く塔を見上げながら、二人は再び手を繋ぎ歩んでいく。

目次 第四章-8