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 風が聴こえる。地面を奔り砂を巻き上げ、まるで潮騒のような風の音が聴こえる。

 風に含まれた砂粒の一粒一粒が肌に触れるのを、彼は研ぎ澄まされた神経で感じ取っている。そして、濃密な月光に満ちたこの夜の冷気の動きさえも彼は自分の体の一部として認識している。

 

 彼は疑い無く今此処で生きており、この星の一部なのだ。

 

 闇に咲く孤高で慈愛に満ちた大輪の光は地平から完全に離れ、漆黒の中央へと昇って行く。流れ落ちる涙は止まり、紡樹は渇いた砂の上に膝を立てて座っている。彼は言葉を発する事も無く唯風の音に耳を澄まし、其処から何かを聞き取ろうとしているかのように見える。もしくは、空から零れ落ちる月光からメッセージを読み取ろうとしているのかも知れない。

 余りにも広大な夜闇に一人腰を下ろし、流れ行く時に身を委ねている彼は、限り無く広い宇宙の底で確かに生きているのだ。彼は月から零れ落ちる光を受け取ろうとしているのか、両手を空に掲げた。

 

 ――俺の命はこの星の意志で生み出された。

 この無限の闇が広がる砂漠で、遠い宇宙から降り注ぐ淡い光を眺めて一人座っていると、そう断言出来る。勿論俺の命だけじゃない、この星にあるもの全てはこの星の意志で存在しているのだろう。そして、この星自体も宇宙の意志によって必要とされている。

 意志という言い方には語弊があるかも知れない。だが、現存する全てのものは何らかの外的作用があったからこそ存在している。それは因果とも呼べるが、その因果を生み出すものこそが「意志」なのだ。

 俺の命は意志によって生み出されたが、その命をどう使うかは俺の自由だ。自ら捨て去るのも、思いの儘に生きて燃やし尽くすのも。

 人は立ち止まれば余計な事を考える。生きる妨げとなる程のネガティブな思考に潰されそうになる事もある。そして、その間にも命は終焉へと向かっているのだ。

 ならば俺は、立ち止まる事無く命を真っ直ぐに走り抜けよう。自分がすべき事に常に全力を傾けるのだ。俺がまず成し遂げるべき事は、生きて帰り風音に無事を伝える事。そしてその後は、死を願う程の絶望に苦しむ人々の力になる。

 意味は他者に必要とされてこそ生じるものだ、俺はそう思っていた。そして絶対的な意味は誰にも存在せず、狭い範囲だけで循環するものだとも。

 その考えは誤りでも無いが真実でも無い。まず、あらゆるものはこの世界に存在している時点で既に絶対的な意味を付与されている。存在するという事自体が絶対的なのだ。そして、意味は他者に依存すると同時に自分自身で創り出す事が出来るのだ。

 

 俺は生きたいから生きる。何があっても必ず生きていく。

 そして今まで生かされてきたからこそ、俺も誰かを生かそう。

 

 紡樹はその言葉を心に強く刻み込み立ち上がろうとしたが、上体を上げる前に前のめりに倒れる。空腹と疲労、そして睡眠不足が雪崩のように彼に圧し掛かって来たからだ。

 そして彼が命の危機を一旦脱した事で、心の奥深くに根ざした闇が立ち上がった彼を再び呑み込もうと声を荒げる。

 

 聞け。どのような覚悟をしようが、お前が生きるだけで誰かが傷付く事になる。誰かを生かすなど、唯の思い上がりだ。人は人を傷付けてしか生きていけない。最初から生きるという道を選ばなければ、誰も苦しい思いなどせずに済むのだ。

 

 そうだ、生きる事は苦しい。そして生きる事によって、他の誰かを苦しめるだろう。だが、人は人を想い支える事で人の心を救う事は出来る事を知った。こんな遠くに居る俺を想う風音の心が俺を助けてくれたのだから。人が人を傷付けるのは当たり前だ。だから、その分誰かの力になれば良いだけの事だ。

 

 声は紡樹に抗議しようと更に言葉を重ねたが、段々と弱々しくなり全く聞こえなくなった。死を眼前にした極度の緊張から解き放たれ、彼の体は猛烈に休息を欲している。それは渇きには及ばないが、人の意志でコントロールするには余りにも強過ぎる衝動だった。

 

 酷く眠くて瞼が重い……。ん?

 砂の上に薄っすら蒼い光が見える。何の光……だ?

 

 紡樹は今にも眠りそうになりながらも、淡い光を放つペンダントに手を伸ばした。だが彼の体は重く、転倒した際に体から離れたペンダントにすら手が届かない。それでも彼は何度もその光を掴もうとした。まるで、それを失う事を酷く恐れているかのように。

 ラピス・ラズリの光が拍動に似た強弱を繰り返し光度を上げていく。

 光の明滅が止み、眩い程の光が紡樹を包み始める。その時、振り回された彼の手が、何か柔らかなものに触れた。

 

 風音?

 

 紡樹はその感触が何故か遥か遠方にいる筈の風音のものに思えた。その懐かしく柔らかい熱を感じ、彼の意識は温かな光に溶けていく。彼は瞳を閉じ風音の気配を感じる。陽溜まりで手を繋ぎ二人並んで座っているような感覚、言葉を交わさずとも心を共有しているかのような心地良い感覚、そんな感覚が彼を包む。

 風音、ありがとう。愛してる。

 紡樹がそう、「風音の気配」に告げると気配は微笑んでいるかのように温かみを増した。紡樹はその気配に包まれながら、深い眠りに落ちて行く。

 やがてラピス・ラズリが光を失い、風音の気配はそっと紡樹から離れた。それでも彼は安らかな寝顔のまま眠り続けている。母が見守る揺籠で眠る幼子のように。

目次 第三章-10