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 世界に色彩を与える太陽が地の果てに没した。それでも暫くは残光が地平を淡く染め上げていたが、やがて世界はモノクロームに沈む。紡樹は目標としていた光を失ったが、歩みを止めようとはしない。

「もう方角も分からないが、遠くに見える小高い岩山を目指そう」

 彼は自分に言い聞かせるように呟き、大地に佇む色濃く巨大な影を目指して歩く。無彩色の砂漠は更に明度を落とし、漆黒に染まりつつある。しかし紡樹は焦燥を感じてはいなかった。一度捨てる筈だった命が戻り、今もこうして歩き続ける事が出来る。その事実が彼にかつて無い自信を与えていたのだが、彼がこれ程までに確信を持って進める本当の理由は、彼は無意識的に「何かに導かれている」ように感じていたからだ。其処に論理的な根拠は無く妄信と断ぜられても否定は出来ないが、それでも彼は自らの歩みに疑念を挟む事は無い。

「こんな事になるなら、星の並びや方角を覚えておくべきだったな」

 彼は苦笑しながらそう呟いた。空には無数の星屑が煌き、どれが星座なのかも分からない。そして星座が分かった所でその方角を記憶している訳では無いからやはり彼は帰るべき道を見付けられない。それでも彼は、必ず生きて帰るだろうという確信を持っていた。彼の脳裏には自分がこれから長い人生を生きていくイメージが沸いていて、それを実現出来る力が彼の中に満ち溢れているからだ。

 

「もし風音が俺を許してくれたなら、俺はいつかこの砂漠に彼女を連れて来よう。そしてこの凍て付く程に孤独な、それでいて永遠を見渡せる程に透明な星空を見せよう」

 

 熱を失った灼砂を吹き渡る風は冷たく、紡樹は体の節々が痛むのを感じていた。過剰な疲労と渇きが再び彼を苦しめ始める。意識が再び朦朧としてきた所で、彼は小高い砂岩に辿り着いた。この場所では小高い岩山が連なり遠目では巨大な一枚岩に見える。だが星々の光のみが照らすこの空の下では、間近に近寄っても全体像は把握出来ない。砂岩の麓で休もうと紡樹は力を振り絞る。

 砂岩が目の前に迫ろうとした時、突如「パシャン」という弾けるような音が響いた。同時に靴越しに伝わって来る感触が柔らかい砂では無く、何かごつごつした硬いものに変わる。

「この音は?」

 紡樹は恐る恐る屈み込み、掌で音の正体を確かめる。

 

「これは……、水? 岩の窪みに溜まった水だ!」

 

 紡樹はそう叫び、水溜りの水を両掌で掬って何度も口に運ぶ。その水は生温く、砂が混じっていたが彼にとってその水は正に生死を分かつ水だった。彼は穏やかな星明りを反射して煌く別の水溜りも見付け、体の渇きを癒していく。この水は昨日の俄か雨が蒸発せずに一部残ったものだが、彼には此処に水があるという事実だけで十分だった。

 彼の目には見えず、気配も感じられないが沢山の生物が連なった岩山の麓に集まっている。小動物から中型の哺乳類に至るまで多種多様だが目的は皆同じだ。

 人心地が付いた紡樹は水場から少し離れ、砂漠に「ドサッ」と音を立てて横たわり天を仰ぐ。そして誰かに同意を求めるかのように呟いた。

 

「俺は、生きていて良いんだな」

 何故だろう? 心が震え、熱くて堪らない。冷静に考えれば、太陽に向かって歩いたからと言って水を得られるとは限らないのに、俺はこうして渇きから解放され生きている。その事がこれ程までに俺の心を揺さぶるのか?

 否、俺は「生かされている」のだ。

 俺は生まれてから今まで生きて来たのでは無く、生かされて来たのだ。それを知らずに、自分の意志で生きたいように生きようと考えていた事は驕りだ。俺はこの星に生かされ、周りの人間に守られたからこそ生きて来られたに過ぎないのだから。

 この底抜けに透明な空を見詰めていると、世界には人の意志の範囲を越えた、何か途轍も無く大きな存在があり、それが俺達を見守ってくれているような気がする。

 

 地平の片隅が輝き始め、その光は強さを増していく。その姿が完全に見えた時、紡樹は立ち上がり声も出さずに泣いた。月は太陽のような力強さは無いが、夜の漆黒を拭い去るには十分で、その穏やかな光は彼にとって人智を超越した救いの象徴にさえ思えた。

 半分欠けた月の光を映した水面が揺れて砕ける。その破片の幾つかに淡い蒼色の光を放つラピス・ラズリが映っている事に紡樹は気付いていない。

目次 第三章-9