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 世界を焼き尽くす暴虐な光が天頂から地平へと下りていくにつれて気温は下がっていく。そして、灼熱の大地が再び熱を失っていく事を報せるかのように時折風が駆け抜ける。ざらざらとした熱風がやがて春風のような肌触りの良い風へと変化した時、倒れてから微動だにしなかった紡樹の肩が微かに揺れた。

 体を動かしたにも関わらず、紡樹の意識は波の失われた漆黒の大海のように深い闇と静寂に覆われている。しかし、幾度目かの強い風が巻き上げた砂が彼の顔に振り掛かった時、意識の海に漣が立った。漣は互いに結び付いて増幅し巨大なうねりとなり、やがて荒れ狂う嵐が生まれる。その嵐の烈しさはあらゆる存在を拒むかのように攻撃的で破滅的だった。意識は破壊し尽くされ、命が終焉を迎えるのでは無いかと思われたその瞬間、唐突に嵐は止んだ。そして嵐の中心から光が生まれ、破壊の後を修復していく。意識が光に満たされ、紡樹はゆっくりと目を開いた。

「……寒い」

 一言そう呟き彼は身を揺すった。その後、再び瞼を閉じようとしたが彼の中の何かがそれを押し留める。それは倒れ行く前に芽生えた彼自身の渇望だった。

 

 俺はまだ……、生きている。生きている!

 

 声にならない叫びが紡樹の中で反響する。その内なる声は彼の疲弊した体に染み渡り、再び活力を取り戻していく。指先に感覚が戻り、風の音が明瞭に聴こえ視界が何処までも透明になる。そして彼の頭の中に立ち込めていた暗い霧までもが晴れていった。

 天頂から紡樹を灼いていた陽は、間も無く地平へと沈もうとしている。限り無い力を誇った太陽は、自らの支配の届かぬ夜が訪れる前に存在を誇示しておこうとするかの如く空と大地を真紅に染め上げていた。

「何だ……、この血に染まったような空は」

 太陽は黄金色に輝いているにも関わらず、空からは血が流れ大地がそれを受け止めている。世界の涯に広がるこの荘厳な営みを、彼は今まで見た事も想像した事も無かった。彼は自らが作り出した狭い世界の中だけで生きていただけなのだ。

「俺は此処で何をしている?」

 ――俺は「こんな所」で一体何をしているんだ? 分かってる、幾ら意識を失ったとは言え忘れられる筈も無い。

 俺は……、死ぬ為に此処に来た。

 

 紡樹は眩暈を堪えながら、草むらの中からゆっくりと立ち上がった。先刻までの憔悴した顔とは違い彼の表情に弱さや恐れは無くなっている。その瞳は俗世の事象を達観しているようにも、生きる苦しみの全てすら傍らに置き続ける覚悟が出来たようにも見える。

 彼は渇いている。体の全ての細胞が水を求めて喘ぎ、とっくに限界を越えた筈の彼を突き動かす。だが最も渇いているのは、死ぬ為に此処に来ると言う選択を下したにも関わらず、実際に死に瀕する事により激烈に「生きたい」と願う彼の心だった。

 紡樹は死ぬ為に此処に来たが、死にたかったのでは無い。死のうとしなければ、生きる道を見付けられなかった。そしてそうしなければ、出口の無い絶望に絡め取られて二度と以前のようには生きられなくなる事を、彼は無意識に感じていたのだ。

 鮮血に染まり、間も無く光を失うであろう地平を睨み紡樹は呟く。

 

「俺はもう一度、風音の声を聴きたい!」

 

 体は碌に動かず、意識もはっきりしない。だが彼は生まれて初めて自分から「生きたい」と思えたのだ。生きるという事は決して当たり前の事では無い。血潮が滾るような渇きの中で、今この瞬間を生きられるだけでも幸せなのだと彼は知った。

 

 俺が自らの存在理由を見失い、風音を傷付けて此処まで来たのは、苦しみの中で生きていく事から逃れたかっただけだ。だが俺はもう苦しみから逃げたりはしない。苦しみや絶望を伴侶にしてでも、自らの意志で生きていく。例え生きていく事でもし再び誰かを傷付けそうになったとしても、俺は一人ででも生きていくのだ。

 だからこそ俺はこんな所で死ぬ訳にはいかない! そして風音に会って俺は何があっても生きていく事を誓おう。

 願わくは、傷付けた分彼女を一生守っていきたい。

 

 紡樹は自分を灼いた砂に足跡を刻みながら、沈み行く太陽に向かって歩き出した。水を失って半狂乱になった紡樹はバックパックの中身を全て失っていたが、彼は空のバックパックを投げ捨て、無心に落陽に向かって歩く。自分の歩いて来た方角は既に見失っていたが彼の足取りに迷いは無い。

 灼砂に陽は呑まれ、天球を夥多なる星のベールが覆い始めた。

目次 第三章-8