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 風の声しか聴こえない静謐な世界に微かな音が加わる。月光のカーテンから目に見えない程細かな雨が降り始めたのだ。雨は耳を澄ましても聞き取れない程の微かな音を奏でながら、灼砂に滲み込んでいく。天空が慈愛に満ちた涙を流しているかのように。

 雨は降り続き、砂漠に抱かれて眠る紡樹の体をしっとりと濡らす。彼は深い眠りにありながらも体が芯から冷えていくのを感じてゆっくりと瞼を開いた。目元に溜まった雫が零れ落ち、砂漠に吸い込まれる。

 

 ――寒い。雨が降っているのか。

 

 意識の中にそう呟き、紡樹は小刻みに震えた。

 彼は砂漠の上で、身動きすら儘ならない程の眠気に襲われて眠りに落ちたのに、何故か目覚める寸前まで風音と一緒にいたような気がしている。より正確に言えば、彼女の気配を直ぐ傍に感じていたのだ。風音がこの場所に来る事などありえないのに、彼女の感触を、彼女の熱を彼は覚えている。そして彼は風音の「心」を感じた。無事を祈り、帰りをずっと待ってくれている温かな心を。

 

 帰ろう。

 幸い体は動きそうだ。月は天頂にあるが、地平が明るくなってきた。最初は暁光に向かって歩き、その後は南へ向かえばいい。太陽さえ出ていれば、腕時計の針である程度の方角は求められる。問題は水を持ち運び出来ない状態で歩く事だが、今から全速力で歩けば何とか空港ぐらいまでは戻れるだろう。日が落ちるまで此処に留まる手もあるが、夜には体力が低下している可能性もある。

 何より、俺は早く帰って風音に無事を報せたいのだ。

 

 紡樹は立ち上がり身震いをした。そして水溜りの水を飲めるだけ飲み、柔軟体操をして体の凝りを解す。最後に彼はこの場所をしっかりと心に刻み込む為に岩山に登る事にした。

 周囲を一瞥して登り易そうな岩山を選び、その後は傾斜の緩やかな足場を選び慎重に体を岩の上へと運ぶ。元々運動が得意な彼は、二・三分で高さ十m程の岩を登り切った。頂上で一息吐き、自分が歩んで来たであろう道を眺める。まだ陽が昇っていないのではっきりとは見えないが、彼はその道程が長く険しいものだった事をはっきりと思い出した。だが彼の瞳に苦しみの色は残っておらず、これから歩んでいく遠い未来を目を逸らす事無くしっかりと見据えている。そして彼は炎のように紅く染まっていく地平に目を遣り、息を呑んだ。其処には思い掛けない光景が広がっていたからだ。

 空に掛かる雲は地上に近付くにつれて暗褐色から濃紺、そして赤く燃え盛る炎の色へとグラデーションを作っている。雲の下には途方も無く巨大な鏡のような塩の湖が広がり、世界の多様な色彩を映し出しているのだ。

 今正に空と湖の間で黄金色の新たな光が生まれようとしている。目を射る程の強い光が地平の一点に現れた時、紡樹は岩の上に座り込んだ。

 

 この世界は直視するには余りに美し過ぎる。

 だが俺はこの世界に生まれて来て良かった!

 

 まるで、死んでいた世界が蘇ったかのようだ。炎の翼を持つ鳥が闇の中から現れ、光で世界を埋め尽くそうとしているようにも見える。

 俺は今まで、一体何を見て何を考えて生きて来たのだろう? 世界の美しさも、自分が途轍もなく大きな存在の一部に過ぎない事も知らなかったのだ。

 もう負の思考のスパイラルに陥ったりはしない。そんな暇など無いぐらい、俺にはやるべき事があるのだ。俺は世界の涯の美しさと風音の想い、そして俺自身の渇望で絶望を乗り越え生きる力を得られた。だからこそもう一度小説を書こう。今この瞬間を生きている事が辛い程の絶望に苛まれている人達に希望の灯を分け与える為に。

 死を打ち砕いた俺の言葉を届けるのだ。

 

 何時の間にか雨が止んでいる。降り始めと同じようにひっそりと声も無く。

 

 紡樹は光り輝く世界の目覚めを目に焼き付け、岩を下った。

 岩の麓でもう一度水を飲み、歩き出そうと立ち上がった時、一陣の風が起こり紡樹を包んだ。太陽の温もりを含んだその風は、まるで意志を持って生きているかのように紡樹の肌を優しく撫でる。

 

 この風と同化し永遠に世界を旅して回れたら楽しいだろうな。

 だがそれは、「生きていなくても」出来る事だ。風音、俺は今から帰るよ。

目次 第三章-12