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 水面の一部に薄く張った氷が、木々の間から零れ落ちてくる月光を受けて頼りなげに煌いている。寒風が吹き漣が立つと氷は僅かに揺れる。その小さな池は、神社の境内の一角にあり無言で来訪者の姿を映している。昨日降った雨で今日は気温が一段と下がっており、夜の神社への来訪者はスーツの上にコートを羽織った若い女性一人しか居ない。彼女は手に紙縒りを持ち、神社の入口から本殿までの短い距離を何度も往復している。吐く息は白く、頬を突き刺すような冷気が彼女の歩みを遮ろうとするが、彼女は強靭な意志を瞳に宿し決して歩みを止めようとはしない。

 百度目に本殿に辿り着くと、彼女は目を閉じてそれまでの九十九度よりも長時間、心の中で願い事をした。自分の元を離れた恋人が無事であるように。

 

 ――紡樹、私にはこんな事しか出来ないけど何もしないよりはいい。祈る事が自己満足だって事も分かってる。それでも、もし私の祈りを聞いてくれる存在……、人の願いを叶えてくれるような存在が居るなら、私は何度でも参拝してお願いをする。

 風音は昨日見送った紡樹の無事を祈念する為に、仕事を終えた後で家の近くにある神社に来た。そして、紡樹が帰って来るまでは毎日欠かさず百度参りをすると決意したのだ。彼女は神社を出て自宅へと歩き始める。ふと見上げると、冬の透明な空に星屑が鏤められている。刹那、金平糖が思い浮かび彼女はそのイメージを振り払うように首を振る。金平糖は彼女にとっては離別の象徴であり、恐怖の対象だからだ。彼女はゆっくりと呼吸を整え、悠遠の空に語り掛けるように心中で声を発する。

「空に浮かぶ星々は、今頃紡樹の頭上にも輝いている。私はどんな苦難を背負っても構わない。だから、紡樹の心を照らしてあげて……」

 空に撒かれた輝く砂粒のような星々は、風音の声に応える事も無く唯静かに煌いている。彼女と星々の間には途方も無い距離があるが、彼女は夜空を身近なもの、より正確に言えば自分を含めた一つのものとして感じていた。彼女の意識は徐々に夜空に溶けて一体化し、遠くて近い紡樹に祈りが届くような気がする。

 

 紡樹、心を空っぽにして夜空を見上げてみて。

 

 生きる意味は考えるものじゃ無く、感じられるものなの。空には、時が始まった時から今までの記憶が刻み込まれているわ。夜空を見て何処か寂しい気持ちになるのは、自分がこの星に生まれる前の原始の記憶、かつて宇宙の一部だった頃の事を感じられるからかも知れない。

 

 風音は何処までも伸びていく思索の糸を巻き取り、空を見上げるのを止めて自分の歩く道に目を向ける。何時までも空を見上げていると、自分の心が完全に解けてバラバラになってしまうような気がしたからだ。

 

 望む、望まないに関わらず明日は来る。紡樹を身近に感じられない明日が来るのは辛いけど、私は貴方の光になると誓った。私は明日も生きて、今よりも強い自分になれるようにする。

 だから紡樹、お願いだから生きていて。

目次 第二章-10