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 翌日、風音はベッドサイドから聴こえる脳髄に響き渡る不快な音で目を覚ました。それが目覚ましの音であると知りつつも、明け方近くまで眠れなかった彼女にとっては僅かな安らぎを妨げるものに他ならない。睡眠不足と疲労で痺れる頭を振り彼女は起き上がった。

 購読している新聞三部にざっと目を通し、トーストと紅茶で簡単に朝食を摂る。彼女は目覚めてから身支度を整えて家を出るまでに一時間半程度を掛けるが、疲れていてもその時間に殆ど誤差は無い。

 職場へ向かう電車に乗り込み、風音は携帯電話を開く。ボタンを二つ操作し、メール作成画面を開いた後で彼女は指の動きを止めた。

 ――まただ……。また私は紡樹にメールを送ろうとしている。付き合い出してから、私達は朝出掛ける時と家に帰った時には必ずメールを送る事にしていた。その習慣はどうしても不可能な場合を除いて、喧嘩をした時も忙しい時にも欠かさなかった。紡樹が落ち込み始めてからもメールだけはしてくれた。でも今は、メールを送っても届かないし返事も返って来ない。

 風音は昨日、届かない事を知りながらも紡樹にメールを送っていた。そして、本当に繋がらないのかを確かめる為に電話も掛けた。だが、彼女の携帯電話からは無慈悲な案内音声が聞こえ、紡樹の不在を知らせるだけだった。

 彼女は携帯を閉じ、手持ち無沙汰なので窓の外に目を遣る。其処から見える景色は、一度も見た事の無い気がするよそよそしい街並みだった。いつも電車に乗って直ぐにメールを作成していたので、朝陽を浴びたこんな街並みには見覚えが無いのだ。

 風音は不意に目元が潤むのを感じ歯を食い縛る。音楽プレイヤーから聴こえてくる音楽に集中しようとするが、どの曲にも紡樹との思い出が満ちており彼女は唯ひたすら目的地に早く到着する事を願った。

 

 風音の仕事は朝から忙しい。外資系の化粧品会社で貿易事務を務める彼女は、朝一でまずメールチェックを行い受発注データの処理や、船積みについての指示などを行う。メールやファックスなどは時差の関係上夜中に届き山積みになっているので、朝はその片付けに追われるのだ。彼女は働き始めた当初は英語力が足りず思うように仕事を進められなかったが、現在ではそれを乗り越え第一線で働いている。彼女の仕事は丁寧且つ迅速であり、他の人間が見落としがちな細部にも目が届いているので周りから一目置かれている。だが、他人からはいつも通り仕事をしているように見えても、風音は自分が上の空で仕事の効率が落ちている事を理解していた。

 

 昼食の時間までに、午前中の作業を何とか片付けた風音は、社内に残っている唯一の同僚の女性と共に社員食堂へと赴いた。他の女性の同僚は、激務についていけず辞めたか、結婚して家庭に入ったか、海外の支社で働いているかのどれかだ。風音は余り食欲が沸かなかったが、午後からの仕事が余計に辛くなる事が目に見えていたので無理にでもしっかり食べようと決めた。

 食事中、同僚と話をしながらも風音は時折窓の外に視線を向ける。その窓は南側にあり、紡樹が向かった国の方角だからだ。

「どうしたの? 最近ボーっとしてるよね」

 突然そう言われたので、風音は驚き「そう?」としか返答出来なかった。紡樹と出会ってからは、他人に対してもある程度自分自身を見せられるようにはなっていたが、無防備な状態で人に接する事は殆ど無く、今のように不意を衝かれる事は稀だった。

「彼と何かあったの?」

 この同僚の勘はなかなか鋭い。それに入社してから同じ部署で働いているので、風音の事をよく知っている。

「うーん……、そんな所かな」

「相変わらず秘密主義ね」

「ごめんね、でもそうやって深く訊かないでいてくれるのは嬉しいよ」

 同僚は「やれやれ」とでも言いたげな苦笑を浮かべ、風音は軽く頭を下げる。

「ボーっとしていても、相変わらずの仕事振りなのが凄いよねぇ。私も見習わなくちゃ」

 同僚が首を傾げながら笑い、風音も微笑む。その後で風音は再び窓の彼方に目を遣り、その先に居る筈の紡樹の無事を祈る。

 

 夜の八時頃まで残業をして仕事を終わらせた風音は、今日も自宅に戻る前に神社へ向かった。この日も夜の神社に人影は無く、静謐だが何処か張り詰めた空気が風音を包む。彼女は鞄から参拝の回数を記録する為の紙縒りを取り出し、息が上がらず体が冷える事も無い一定のペースで歩き始めた。

 紡樹の事を祈りながら唯ひたすら歩いていると、風音の頭から雑念が消えていった。風によって木立の枝葉が擦れる音や、自身の呼吸が明瞭に聴こえる。やがて自分の意識がこの世界に溶け込んでいるような実感が沸いた時、「その声」は唐突に響いた。彼女にとって馴染み深い声であり、決して拭い去る事の出来ない声。物心が付いた頃にはその声は直ぐ傍にあった。

 

 何を無意味な事をしている?

 お前は誰にも必要とされていない。本当の家族が居ないお前には、死んでも心の底から悲しんでくれる者はいないのだ。そして、誰にも必要とされないお前が幾ら祈ろうと、その祈りは誰の元にも届かない。

 

 私の暗闇から聴こえる声……

 久し振りね。紡樹と出逢ってからは、あんたの声を聞く事なんて殆ど無かったのに。あんたは私の弱みを見付けると直ぐに現れ、心を蝕む。

 私は誰からも必要とされなくていい。唯紡樹さえ生きていてくれれば。

 

 常に誰かから必要とされたい、理解して欲しいと願って来たお前がよくそんな事を言えたものだ。お前のその想いは唯、自分の理解者を取り戻したいだけのエゴだ。お前は紡樹に依存し、紡樹の心が壊れるのを黙ってみていただけだ。

 

 そうかも知れない。でも、エゴでも偽善でも何でも構わない。私は紡樹に甘え続けて来た分、今度は私があの人を理解し、支えていくと決めたの。

 

 精々足掻くがいい。その誓いを果たせなかった時、お前の心は今度こそ完全に破壊されるだろう。

 

 分かったからさっさと消えて。

 声は聴こえ始めた時と同じように、唐突に消えた。風音は溜息を吐きながらも、百度参りを継続する。

 

 ――もしかしたら、紡樹にも闇の奥底から響く声が聴こえたのかも知れない。心の陰に潜み、闇へ引き摺りこもうとする声。負の感情に満ちたその強い声に対抗するには、より強い意思を込めた声で毅然と反論しなければならない。

 私を手に掛けようとしたあの時、紡樹の様子は明らかにおかしかった。あれが「声」による行動ならば、紡樹は一度その声に打ち克っている事になる。

 

 それなら、貴方の心の灯は決して消えたりはしない。

目次 第二章-11