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 風音は恋人を作る事も無く、残りの高校生活に於ける自由時間の殆どを勉強に費やした。彼女にとって誰も自分を知らない大学に行くという事は、同級生達が到底合格出来ないレベルの大学に合格する事だったからだ。だが人目に付かない努力に慣れていた彼女にとっても、それは相当厳しいものだった。同じ高校に通学している者は基本的に学力があり、その誰もが大学入試に向けて勉強するからだ。

 それでも風音は模試を受ける毎に、どんどん順位を上げていきやがて同級生は誰も彼女に付いていく事が出来なくなった。漠然と将来の為に勉強する者と、生きる為に努力する者では習熟の度合いが全く違う。そして彼女は学校内から一人レベルの高い国立大学に合格した。付き合いで友人達と温泉地へ卒業旅行をした後、風音は高校までの自分を変える決意を新たにした。

 大学は風音の住む地方から遠く、一人暮らしをしなければ通う事は出来ない。それも自分を変えようとする風音の思惑の一つだった。彼女は入学式の一週間前にはセキュリティのしっかりしたマンションに引越しをして、数日間は母親が風音と共に過ごした。母親が故郷に戻り一人きりになると風音は途端に不安になり、テレビを付けて人の声が無いと眠れない程だったが、胸に刻んだ決意を反芻し入学式までには気持ちを落ち着けた。

 

 入学式当日、風音は緊張感に震える自分を包み隠すように買ったばかりのスーツを着込み、背筋を伸ばして出掛ける。その佇まいは凛としており、朝陽を浴びながら歩く彼女は自信に満ち溢れているように見えた。

 風音は電車に乗り込み、大学の最寄り駅で降りた。駅から大学までは徒歩十分程で彼女の家からは合計三十分も掛からない。新緑が鮮やかな並木道を通り、風音は大学の門をくぐった。

 多数の新入生が学内に溢れている。皆が一様に浮き足立っており、新しく始まる生活に胸を弾ませているように見える。大学生活はまだ白紙であり、それをどのように描くかは各々に委ねられている。殆どの人間が白紙に描く絵のテーマすら決めていない中で、風音は漠然とではあるが絵の完成形を思い浮かべていた。

「この大学には昔の私を知っている人はいない。私は此処から生まれ変わるの。「私」を私に溶け込ませ、本当の自分として生きていく。今まで人に見せて来た明るさや活発さは無くさずに、ネガティブな心と自己嫌悪をも上手く人に見せていこう。そうして、自分の事を好きになる事が出来れば私はもう絶望と死への誘惑に絡め取られる事は無い筈だ」と。

 

 入学式を終えて講堂から出ると、何処にそんなに人が隠れていたのか不思議な程の人間が新入生を待ち構えていた。サークルの勧誘の為だ。風音はその容姿と人に不快感を与えない微笑みの所為で一歩歩く毎に上級生から声を掛けられた。初めはちゃんと話を聞いていたが、このまま全サークルの話を聞いていたら家に帰れないと思い、風音は両親と約束がある事にして各サークルの話を短めにして貰った。それでも彼女は、勧誘が行なわれている区域の端まで辿り着くのに二時間近く掛かった。数え切れない程の勧誘チラシを鞄に詰め込んだ風音は、ようやく家に帰れると溜息を吐く。その時、直ぐ近くの勧誘ブースから上級生が新入生に話し掛ける声が聞こえて来た。

「映画は人を非日常へと連れて行ってくれるだけじゃ無い。時には観客をヒーローやヒロインにしてくれる。スクリーンに映っているのは俳優じゃ無く投影された観客自身なんだ」

 風音は足を止め、声の主に視線を送る。視線の先では長身で細身、精悍だがあどけなさを残した顔と、何処までも真っ直ぐな瞳が特徴的な男が熱心に映画の素晴らしさについて語っていた。彼女は彼を一瞬見ただけで、「自分の好きなものに対して誠実な人間だな」と思った。

「――だから、本当に良い映画を見る事で観客は変わる事が出来るんだ。それまでより積極的になれたり、人の痛みを知る事が出来たり……」

 

 ねぇ、紡樹。

 貴方の声と言葉は私の胸にすんなりと届いたの。何故だかは分からない。でも私は、貴方の言葉を聞いて素直にサークルに興味を持てた。今考えれば、私は無意識の内に貴方の中にある「強烈な光」を見付けていたのかも知れない。私の闇と対極にあるような光。

 実際に貴方の光は私を温かく照らしてくれた。誰も見付けてくれなかった私を何の苦労も無く手を引いて救い出してくれた。でも舞い上がっていた私は、貴方も闇を抱えているかも知れないと言う事すら考えようともしなかったの。

 私は貴方の光が闇に覆われていくのを止める事が出来なかった。そして光は硝子が砕けた跡の小さな破片のように散逸してしまった。私が今出来るのは、紡樹が自分の力で闇に灯を燈せるように祈る事だけ。そして、私はもう言い訳はしない。私はもう仮面を付けた人間じゃ無いから。

 

 私は本当の自分として生きている。

目次 第二章-9