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 整然と机が並べられた教室に多数の男女が居る。彼らは友人の席の元に集まって騒いだり、一人で漫画や雑誌を読んだりして短い休み時間を過ごしている。流行の服や音楽の話は際限無く飛び交い、他人の恋愛話は声を潜めて語られるのは、どの学校でも大して変わらない。

 生まれてからずっと他人との協調を強いられて来た彼等にとって、高校は明確な自我を形成する場所であり、自由な未来に否が応でも押し出される場所でもある。選択の必要の無い人生を生きてきたのにも関わらず、彼等は未来を選択しなければならないのだ。「目に見えない漠然とした何か」に反発し、「何者にもならなくて良い」という心地良さを捨てて。

 次の授業に向けて教科書とノートを机に出そうとしている風音の元に、二人の女友達がやって来る。二人は照れたような、申し訳無さそうな表情を浮かべて風音の机の端を両手で握り風音と視線を合わせる為にしゃがみ込む。

「風音、ごめん! 英語の宿題見せて」

 その二人の女友達は風音と一緒に昼食を食べたり、休日に出掛けたりする仲だったが風音が彼女達に宿題を見せて貰った事は一度も無い。

「うん、いいよ」

 風音は嫌な顔一つせず、ノートを差し出した。英語の授業は次の次なので二人は次の授業中にでも宿題を写すつもりなのだ。

「風音は凄いなぁ、勉強も出来るし美人だし……。風音が友達なのが誇らしいよ」

 ノートを受け取った方とは別の友人が溜息を吐く。彼女の言葉の中に嫌味が含まれていない事を確認し、風音は大袈裟に首を振った。

「照れるよー。私なんて全然大した事無いって!」

 風音は心底恥ずかしいと思っているような表情を作り、二人と雑談を交わした。駅前で配られていたファーストフードの券をいつ使おうとか、高校生に人気の服屋で来週セールが行なわれるから一緒に行こうと言ったような会話をする。風音は友人に合わせて笑い、落ち込み、涙さえ流す。彼女は女友達に心底共感している素振りを見せる事で上手く人間関係を作っていた。

 

 美しく聡明で思い遣りのあるように見られる風音は、当然のように男にも好かれた。彼女はこれ以上他人に気を遣うと自分が壊れてしまいそうな気がしていたので、恋人を作る事に余り興味は無かったが、友人の勧めで女生徒達から人気のある男子と付き合ってみる事にした。そうすれば自分が変われるかも知れないと考えた事も大きい。

 男子生徒は付き合い始めの頃は優しく、風音も一緒に過ごしていて楽しかった。同じ学校の生徒に見付からない所で手を繋いで歩いたり、映画館でキスを重ねたりしている間、彼女は幸せな気持ちで満たされていた。その時の自分は意図的に作った自分だが、恋愛をしている高揚感と多幸感でそれを忘れる事さえ出来た。だが、そんな時間は長くは続かなかった。風音は愛される事で自分の内面を少しずつ曝け出すようになり、相手はプラトニックなものでは無く、もっと親密な関係を求めて来たからだ。しかし、風音にとって本当の自分を分かって貰えないままそんな関係を持つ事は、自己を否定されたまま生きる事と同義であり、相手の事を好きでも拒絶するしか無かった。

 

 付き合い始めてから三ヶ月後の放課後に、風音は男子生徒に別れを告げられる。それは夏休み前の暑い日の事だった。男子生徒は風音を連れて学校の近くの公園まで歩いた。もう手を繋ぐ事は無く、風音に微笑み掛ける事も無い。それでも風音は何とか自分を分かって貰おうと考えていた。公園のベンチに腰掛け、砂場で遊んでいる子供達を見るともなしに見る。男子生徒は鞄に入れていた炭酸飲料を口に含み風音を一瞥した後、口を開いた。

「ごめん。俺、もうお前と別れる」

 予感していたとは言え、風音にとってその言葉は余りにも耐え難いものだった。自分から誰かが離れる事への恐怖と、もっと自分の事を理解して貰いたいという欲求が入り混じり彼女を混乱させる。

「どうして? あんなに好きって言ってくれたじゃない!」

 風音は泣きながら相手の服を掴む。男子生徒はそれを迷惑そうな顔で振り払い、一歩退いた。たった一歩にも関わらずその距離は風音にとって途方も無く遠くに感じられた。唐突に自分が施設の前に置き去りにされた時の光景が脳裏に蘇ったが、彼女はそれを必死で抑える。すると代わりに彼女の瞳から涙が溢れだした。それを見た男子生徒は肩を竦め風音に背を向けて呟く。

「最初はお前の事、明るくて活発な女だと思ってたのに付き合ってみたら暗かった。それに普通じゃ無いぐらい真面目だしな。俺はもっと気軽に付き合える女が良いんだ」

 本当の自分を少し見せただけで拒絶される。その事に絶望を覚えながらも、風音は涙を拭って声を上げる。

「私、努力するから!」

「じゃあ、今から俺の家に来れるか?」

 男子生徒は振り返りながら意地の悪い笑みを浮かべ、そう言った。風音は俯き黙り込む。この男とはもう終わりだと理性では理解していたが、感情は離別を避けようとする。葛藤の中で答を見出せないまま、男は無慈悲な言葉を接ぐ。

「今時、付き合ってるのに体に触れられるだけで嫌がる女なんていねぇよ」

 風音はその言葉を受けて、小さく「ごめん」と言った。

「ほら、また暗くなる。だから嫌なんだよ」

 男はそう吐き捨てると、風音の元を去っていった。風音はもう追い掛ける事は愚か、呼び止める事すら出来なかった。唯その場で立ち竦み、死にたくなる程の自己嫌悪が和らぐのを待つしか無かった。

 

 孤独。

 それは周りに誰も居ない事では無い。誰にも理解されない事が孤独なのだ。

 彼女の周りには沢山の人が居た。父母、友達、クラスメイト。話し相手には不自由しなかったし、小さな悩み事なら相談も出来た。だが、「自分」をどうすれば理解して貰えるのかなど誰にも訊けなかった。だからこそ彼女は決意した。絶望が齎す死への衝動に脅える毎日から抜け出す為に。

 誰も自分を知らない大学へ行き、其処で本来の「自分」で生きてみよう、と。

目次 第二章-8