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 二日後、紡樹がこの国を去ってから最初の土曜日に、風音は食材の買出しから帰宅して直ぐにベッドに倒れ込んだ。肉体的疲労と精神的負荷が限界に達しており、まともに活動する事が出来なくなったからだ。いつもなら、食事や掃除などのやるべき事を全て終わらせなければ眠る気にもならないにも関わらず、この日の彼女は殆ど数秒で眠りに落ちた。風音が眠る前に出来た事は、ラピス・ラズリのペンダントを外して窓際に置き、部屋の電気を消す事だけだった。

 

 光が消え、主が眠りに就いた部屋は色彩を失い永劫の時を閉じ込めているように見える。やがて朝が来て光に満ちた部屋で主が目覚める筈だが、今この瞬間を切り取って見ると決してそのようには見えはしない。闇の中で時が静止していると言った方が自然だろう。

 

 布団に包まった風音の寝息が深閑とした部屋の空気を微かに震わせている。僅かに開いたカーテンの隙間からは月光が部屋に光を落とし、部屋の温かみで曇った窓の向こうでは銀鈴のような雪が淡い光を放ちながら舞っている。

 空に昇った月の真っ白な光を受けてラピス・ラズリは煌き、風音は寝返りを打った。

 何かを予兆するかのように、部屋に無音のざわめきが満ち始める。微細な光の粒子が室内を舞い、規則正しい呼吸の音が徐々に深さを増していく。

 風音は完全に眠っていたが、眠っている自分自身を理解し俯瞰しているような不思議な感覚に陥っていた。彼女の感覚のみが彼女の肉体を離れたと言い換えても良い。風音の体は異常な程の熱を帯び、苦しそうに何度も寝返りを繰り返す。それを風音の意識は声を発する事も無く、唯じっと見ていた。

 変化はそれだけに留まらない。風音の意識は、目の眩むような光を放っている窓辺へと向かう。その光源はラピス・ラズリであり、まるで太陽を凝縮したかのようだった。彼女が石に触れようと指先を伸ばすと、窓を閉め切った部屋の中に一陣の風が吹き、眠っている風音の髪が揺れる。しかし彼女の意識はそれを感じ取りながらも、恐怖は覚えなかった。彼女は唯、その人智を超えた力の具現を受け入れるしか無く、其処に如何なる想像も意味を持たない事を悟っていたからかも知れない。恐怖は想像の中から生まれる、だからこそ想像を越えるものを人は受け入れる事しか出来ないのだ。

 風音の意志は間も無く発光する蒼い石に触れる。それは予め決まっていた事を実行するかのように躊躇いも無ければ不安も無い。

 

 そして彼女が石に触れた瞬間、風音の意識はこの部屋から消失した。

目次 第二章-12