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 クリスマスが目前に迫り、煌びやかさを増す夜の街。至る所でイルミネーションが瞬き、毎年変わらないクリスマスソングが歩く人々を包む。

 紡樹は酷く穏やかな表情を浮かべて、光り輝く並木道を独り歩いていた。その表情は普通の人間を超越しているようにも、全てを諦観しているようにも見える。

 彼は仕事を今月一杯で打ち切る事を決めた。既にクライアントとの間に入っている営業には体調不良で辞めると伝え、クライアントにも承諾して貰っている。風音とはあの夜以来連絡を取っていない。

 大規模な商業ビルの前に特設された、高さ二十mにも及ぶクリスマスツリーを紡樹は見上げる。色取り取りの光が眩しく、彼は大きく溜息を吐いた。

 

 去年の今頃、俺は風音と手を繋ぎ何の苦しみも無く一緒にこの木を見上げていた。未来への希望に溢れ、風音の冷たくて小さな手と繋がっていた。

 だが俺はもう誰とも……、未来とさえ繋がっていない。

 

 来年の初頭には、紡樹は一人で砂漠の国へ赴き其処で生涯を終えるつもりだ。彼は旅行代理店で話を聞いた後に往路の航空券は既に取得した。個人旅行で同行者は居らず、家には遺書を残すつもりである。それらは極力他人に迷惑を掛けない配慮だが、万が一自分の後始末が必要になった場合、風音に迷惑が掛かる事を予期して自分の処分出来る財産は全て風音に譲る事にした。親戚は皆疎遠な為、紡樹は頼りにしていない。

 風音にそんな役目を負わせてしまうかも知れない事に、紡樹は吐きそうな程の自己嫌悪を覚えた。しかし、彼女が自分を振り切って生きていくには自分の死を確固たるものとして意識して貰う必要があるとも考えた。

 何より、紡樹はもうこれ以上人に気を遣う余裕は無かった。

 

 ざわめきを聞き、イルミネーションに目を細める。後は死に場所へと向かうだけになった紡樹は、生きるという孤独を再認識する。

 人は一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬのだ。寄り添う人間が居たとしてもそれは変わらない。彼は心の底からガタガタと震え、誰かと話をしたくて堪らなくなった。その衝動は飢餓状態のように強く、紡樹は殆ど無意識に携帯電話を取り出し風音を呼び出していた。コールの音が数度鳴り響き紡樹は我に返る。慌てて電話を切ろうとしたが、スピーカーからは風音の声が漏れていた。

「もしもし?」

 そのまま切る訳にもいかず、紡樹は話す覚悟を決める。

「……ああ」

「紡樹! 今何してるの」

 ――どうして俺は電話してしまったのだろう。独りで居続ける事に耐えられなかったからか。それとも最後にどうしても風音の声が聞きたかったのか。

「俺は街を歩いてる」

「何処に居るの? 私も……」

 風音は其処で言葉を止めた。今から行っても良いかを訊きたかったのだろう。だが彼女は先日の事を思い出しているのか、それ以上は何も言わない。

「風音、俺は一旦仕事を辞めて来月から暫く旅に出るよ」

「えっ?」

「俺は心の弱い人間だ。自分で自分をコントロールする事すら出来ない。だからこそ、俺の事を誰も知らない異国の地を一人で旅すれば心の中で何かが変わるかも知れないだろ」

 紡樹が、もし風音と話す機会があればという前提で前もって考えておいた嘘である。それぐらいで変われるなら彼は風音に手を掛けようとはしなかっただろうが、他に尤もらしい理由は無い。

「紡樹は弱くなんか無い。唯、苦しみとの付き合い方を知らないだけよ、苦しみが重過ぎて自分が弱いと思い込んでいるだけ」

 苦しみとの付き合い方、その言葉を紡樹は反芻する。しかし、苦しみを遣り過ごす方法は今までずっと模索して来たが見付からなかった。今更再びそれを考えた所で、現状の打破には繋がらない、そう紡樹は判断する。

 沈黙の中、風音の吐息がスピーカーを通して微かに聞こえる。紡樹はもっと風音の声を聴いていたいと思ったが、これ以上中途半端な希望を抱かせて彼女を苦しめる訳にはいかないと決意した。

「風音、元気でな」

「ちょっと待って! お願いだから、せめて旅の見送りには行かせて」

 ――風音は深く傷付いている。俺以上に心がボロボロになっているのかも知れない。途方も無い愛情を俺に注いだのにも関わらず、俺の弱さにより理不尽に突き放されたのだから。俺はこの電話を最後にしようと決めていた。だが、もう言葉を交わす事無く俺の遺書を見付ける事と、俺を見送ってから俺の遺志を知るのとでは、どちらが風音にとって苦しみが少なくて済むのだろう。分からない。ならば、彼女の願いを叶える事が俺に出来る最後の恩返しなのでは無いか。

「分かった」

 紡樹は短くそう告げた後、出発する空港と日時を伝える。風音は「必ず行くからね」と言い放ち電話を切った。

 クリスマスソングが鳴り止み、イルミネーションが消えていく。空は分厚い雲で覆われ、月明かりさえ見えない。

 

 帰宅して眠りに就いた紡樹に囁き掛けるように、窓の外で雪花が舞っている。だが誰にも気付かれる事無く、朝には溶けて消えるだろう。

 雲の合間から時折月が現れ、寝静まる世界を仄かに照らしていく。

目次 第一章-16