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 世界はクリスマスの浮かれた熱から醒め、人々は新しい年を迎える為に奔走する。紡樹は新しく来たエンジニアに最低限の引継ぎを終え、フリーランスとしての仕事が半年にも満たないまま職場を辞した。彼は誰とも会話を交わす事無く家に籠もり、テレビの雑音と共に年を越した。

 元旦から異国へ出発するまでの約二週間、紡樹は身辺整理に時間を費やした。家の掃除と片付けに汗を流す傍ら、遺書の執筆も進めた。遺書は風音へ一通、旧友へ一通書いた。旧友に宛てられたものには、彼の心境が抽象化されて書かれていたが、風音へのものには具体的な心境の変化と彼女への想いが綴られていた。紡樹は二通の遺書をリビングのテーブルに置き、家の鍵のスペアを封筒に入れて出発前日に風音の家へ郵送した。鍵は指定された配達日である九日後に彼女の元に届く事になるだろう。

 目に見えないような小雨の降り頻る昼下がりに、紡樹は一度だけ家を振り返り空港に向かった。

 

 仕事や学校の始まっている平日の空港は比較的空いており、連休中のように窓口で並ぶ必要も無い。紡樹は六十リットル程度の小さなスーツケースを預け、待合スペースへと移動した。セキュリティーチェックを受けて搭乗口に向かう前に、風音と合流する為である。

 

 純白の染み一つ無いロングコートを纏った風音が、待合スペースの中央にある巨大な砂時計のモニュメントの下で、一人淡い光を放っているように見える。物憂げな表情で瞳を潤ませている彼女は神々しく、紡樹は近付くのを一瞬躊躇った。しかし風音は此方に気付き、小さな顔一杯に浮かべた笑顔で駆け寄って来た。

 風音は有無を言わせず紡樹の右手を自分の左手に繋ぐ。彼女の手は酷く冷たかったので、紡樹は無意識に出来るだけ強く掌を重ねていた。

 あれだけの事があったのに風音は以前と変わらずに紡樹を愛している。傷付いても、突き放されても笑顔で彼の隣に居る。風音は紡樹にとって考え得る限り最高の女性である。だが彼女なら自分が居なくても必ず幸せを見付けられる、彼はそう思う事で自分が彼女に負わせようとしている苦しみから目を逸らした。

 

 二人は無言でセキュリティチェックを行なうカウンターへと歩いて行く。風音が見送れるのは其処までだ。紡樹は掛けるべき言葉が見付からず視線を彷徨わせていたが、風音はじっと紡樹を見詰めていた。だがやがて彼女は瞳に涙を浮かべて俯く。紡樹は精神的に余裕が無いのにも関わらず、自分の中で辛うじて残っている慈しみを無理やり増大させて風音の背中を擦り口を開いた。

「風音、今までありがとう」

 例え俺と風音の心がズタズタに切り裂かれようとも、此処ではっきりと決別しなければならない。俺はもう彼女と会う事は無い。もし会う事があったとしても、その時には俺は生きてはいないのだ。

「どうしてそんな事を言うの? 永遠の別れみたいじゃない。紡樹は旅を終えたら必ず帰って来る、そうでしょ?」

 風音にしては余りにもストレートな言葉が紡樹の決意を鈍らせる。「俺はもう帰って来ないからだ」などとは、どれだけ固く決意をしていても面と向かっては言えなかった。曖昧に頷く紡樹をこれ以上責めてはいけないと感じたのか、風音は張り詰めた表情を若干弛緩したものへと変える。

「私は紡樹に何もしてあげられなかった。ごめんね」

 涙が彼女の両頬を伝う。

 紡樹は果ての見えない闇でもがき苦しんだ挙句、心が制御不能に陥った。風音の手は直ぐ其処に見えていたのに、それは泡沫のように消えてしまった。否、それは彼自身が消し去ったのだ。いつでも傍にありいつでも触れる事が出来たのに今の彼はもうそれを見る事すら出来ない。

「そんな事は無いよ。俺にとって風音は、いつの間にか自分より大切な存在になっていた」

「私だって――」

 何かを言おうとして、風音は言葉を呑み込んだ。紅潮した頬から涙を拭い、彼女は微笑む。その微笑みには気丈さと紡樹に対する愛情、そして拭いきれない虚無が入り乱れている。紡樹が言葉の続きを待っているのに気付き、彼女は首を振った後で新たな言葉を接ぐ。

「何でも無い。そうそう、紡樹に渡すものがあるの」

 風音は手提げのバッグからリボンの付いた赤い紙袋を取り出し、紡樹に手渡した。紡樹はそれをどうするべきか束の間思案していたが、風音に「開けてもいいよ」と言われたので丁寧に紙袋を開封した。紙袋から取り出されたのは、まるで宇宙から見た地球のような球体の瑠璃のペンダントだった。濃紺の中に模様のように浮かぶ金色の粒は、夜空に映える銀河にも見える。

「綺麗な石だな。どうしてこれをくれるんだ?」

 渡せなかったクリスマスプレゼントだろうか、と紡樹は考える。そして自分は彼女には何も渡せず、近い将来彼女に渡されるのは誰も居ない家の鍵なのだと思い涙が出そうになった。

「ラピス・ラズリ。お守りよ」

 風音は短く、そう呟いた。それは自分自身に言い聞かせているようでもあり、紡樹はその意味を問い掛けようとはしない。彼女が今此処で、自分にお守りを渡す意味など聞ける筈も無いからだ。紡樹はお守りを首に掛ける。

「そうか、ありがとう」

「忘れないで、紡樹。辛い時をじっと耐え忍べば必ず幸せが訪れるの」

 真っ白な光を纏った風音の両腕が紡樹をきつく抱き締め、彼はそっと目を閉じた。

 

 何だろう、この温かみは?

 厚い服越しには実際に熱が伝わって来る訳では無いのに、確かに温もりを感じる。その温もりは俺の体の中心まで浸透し、俺の心の形を変えようとしている。何故かは分からないが、遠い過去の父母の愛情の感触に似ている気がする。

 だがもう遅い、俺はこの世界には留まれないのだ。

 無言で瞳を閉じている紡樹を見上げる風音の目に、強い光が宿る。彼女は腕に込める力を強め、口を開いた。

 

「もう一つだけ。生きているから温かいのよ」

 

 風音は紡樹から音も無く離れる。しかし、その動きには名残惜しさを無理やり押し殺したようなぎこちなさがあった。紡樹は風音に背を向けて、セキュリティチェックのカウンターへと歩く。そして一度だけ振り返り掠れた声で風音に言った。

「元気……、でな」

 紡樹はもう振り返らない。風音は瞳に浮かべた涙が零れぬよう歯を食い縛っている。

 

 はっきりとした別れの言葉は告げられなかったが、これで全てが終わる。

 無限に続く負の思考も、最愛の人を傷付けるかも知れないという恐怖も。

 そして、答の無い「意味」の追求も。

 

 紡樹の姿が見えなくなった。だが風音は其処から動かず、バッグに入っているもう一つの紙袋を開けた。彼女は、其処から紡樹に渡したものと揃いのペンダントを取り出し首に掛ける。

 

 紡樹の出国する時間が迫る。いつの間にか小糠雨が大雨に変わっていた。

 そして時折瞬く雷光が、二人の胸の上を漂うラピス・ラズリを煌かせた。

目次 第二章-1