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 何が切っ掛けかは分からないが、紡樹はまるでスイッチを入れられた白熱灯のように唐突に激しく目を開いた。昼間の時間に眠っていた事と、たった今何か恐ろしい夢で魘されていた事が関係しているかも知れないが、理由は本人にすら分からない。彼は前頭部が痺れているような感覚を覚え、一瞬自分が何処にいるのかも理解出来なかった。だが胸に預けられた風音の重みと温かみが、先刻までの出来事を思い出させる。風音が居てくれた事で今日はすんなりと眠れたのだ。何もかもがまた上手くいきそうな気がしていたのに、今は当分眠れそうに無かった。

「すぅ……、すぅ……」

 風音の寝息が規則正しい夜の潮騒のように、部屋の中の濃密な闇に広がる。紡樹は誰も居ない深夜の浜辺に一人佇んでいるような気がしていた。

 幸せそうな寝顔だな。

 それは余りに無防備な寝顔で、紡樹に対して限り無い愛情と全幅の信頼を寄せている事が見て取れる。仄かな月明かりは彼女の繊細な美しさを引き立てていた。紡樹は風音の白く艶やかな頬を撫でようとしてやめる。

 こんなに安らかに眠っているのに、起こすのは可哀想だ、と思ったからだ。紡樹は眠れそうも無いので、風音の寝顔を暫く見ていようと決めた。

 そして紡樹は微笑もうとする。

 しかし頬が引き攣り上手く笑えない。おかしいと感じた直後、さっき引っ込めた右手が再び風音の顔に伸びる。それは自分の意思では無く、誰かが勝手に自分の体を動かしているようだった。紡樹は瞬きする事すら出来ず、自分の肉体が自分の意思で制御出来なくなっている事に恐怖する。やがて伸びた右手は風音の首の真上で止まった。

 

 今なら風音を殺せる。

 

 突如、頭の中に大音量で低く重い声が響いた。その声は人の声とは思えないような威圧感に満ちた声で、誰もが従属せざるを得ないような力を帯びていた。紡樹は突然の声に動転し、言葉の意味を理解するのに時間が掛かる。理解した瞬間叫び声を上げようとするが、声にはならず体も動かない。唯、その声は自分の中の何かが発している事だけは直感的に分かった。自分の心の底で何か禍々しい存在が生まれ、心に深く根付いて絶対的な力で心を支配している、そんな直感だった。だが紡樹は必死でその声に抗う。

 

 黙れ! 「俺」は何を考えている? 風音は俺にとって一番大切な人だろう!

 お前が死ねば、風音は苦しむ。それはお前が一番よく知っている筈だ。彼女の闇の深さを知りながらも、お前は敢えて気付かないようにしていただけだ。彼女はお前無しでは自分の意味を見出せない。どの道風音はお前の後に続く事になる。だからこそ、お前の手で楽にしてやるのだ。決して消えない喪失の苦しみを与える前に。

 ふざけるな! 俺の死に風音は関係が無い。それに、風音は俺と知り合うまで十八年間生きて来たんだ。今更俺が居なくなった所で、彼女は独りに戻るだけだ。風音を殺すぐらいなら、俺が今直ぐ此処で死んでやる!

 本当にそう思っているのか? 風音の想いは、お前の彼女に対する想いよりも遥かに深い。何故彼女が、周りに対して心を閉ざすようになったのかを考えた事があるのか? どうして風音は両親にさえ本心を打ち明けられない。今まで生きて来て、心を開けたのがお前だけだという事は何を意味する?

 そうしなければ彼女は生きて来られなかったからだ。

 

 紡樹は左手を風音の頭の下からそっと抜き去る。そして両手を風音の首に回した。一連の所作は既に紡樹の意志の及ばぬ所にあり、どれだけ抗っても指先一つ動かせない。

 

 やめろ! 俺は風音を愛しているんだ。彼女には例え俺がいなくても幸せを見付けて生きていって欲しいんだ。心を分かって貰える相手がいなくても、彼女の優しさと気遣いがあれば彼女を幸せにしてくれる相手は必ず見付かる!

 それはお前にとって都合の良い解釈に過ぎない。風音にとってお前は「唯一無二」の存在だ。彼女が自分の闇と向き合いながらも歩んで来れたのは、お前が居たからだ。お前が居なければ彼女は自分をすり減らし、やがて心を見失っていただろう。

 お前の死は、彼女の心を確実に殺す。だからこそそうなる前に彼女の命を奪うのだ。それがお前が最後に出来る「優しさ」だ。

 

 脳髄を揺り動かす声。その声はやがて小さくなり、完全に消えた。それに反比例するように、紡樹の理性と感情を焼くどす黒い炎は勢いを増し紡樹の心は激しく焼け爛れていく。

 

 俺が今力を込めれば、風音は死ぬ。

 風音が死ねば、俺がこの世界に留まる意味は完全に消える。そして彼女も俺を喪う苦しみを負う必要が無くなる。

 

 紡樹は目を閉じ、首に回した指に力を込める。だが蝕まれた心の中に僅かに残った「かつての紡樹」の欠片が指を押し止めた。無意識に人の痛みに感応し、慈愛を以って人に優しさを注ぐ事の出来る心の欠片が。しかし、それも長くは続かないだろう。紡樹は風音の顔を目に焼き付けておこうとゆっくりと瞼を開く。すると其処には信じられないものが見えた。

 

 風音が闇の中で微笑んでいた。

 少し寂しそうな目をして、紡樹を見詰めている。抵抗する様子も無く、唯寂しそうに微笑み掛けている。

 

 紡樹は自分の心が、無音で激しく砕け散るのを感じた。彼を彼として支えていた心は最早見る影も無い。それと同時に彼は風音から手を離し、崩れ落ちるように彼女の上に覆い被さる。

 風音は紡樹の背中に手を回し、力一杯抱き締める。彼女は何も言わずに、唯腕に力を込めていた。やがて紡樹が嗚咽を漏らし口を開く。

「もう嫌だ! こんな苦しみは終わりにしたい」

 ――歩いても走っても止まっても闇ばかりだ。息をするだけで苦しく、動くだけで全身から血が吹き出る。足元は真っ暗な底無し沼で、上を仰げば黒い針の雨が降る。挙句の果てに俺は風音を殺そうとした! もし風音が目を閉じたままだったたら、確実に俺は彼女を殺していたのだ!

「どうしたの? 苦しくて仕方無いのね」

 紡樹の背中が大きく震え、風音の瞳から零れた涙が枕に真新しい染みを作る。寂しさを湛えていた彼女の瞳の色が深くなり揺らぐ。其処には最早穏やかさは無く、彼女の中で渦巻く感情が奔流となってそのまま現れているようだ。

「私には紡樹の苦しさが分かる。生きる事が余りに苦しくて、でも誰も助けてくれなくて。夜には明日が来る事に脅え、朝には今までの苦しみが夢じゃ無かった事に絶望する。そして昼には唯時間が早く過ぎ去ってくれる事を祈る」

 瞳と同じく深く沈みこんだ声。声に抑揚が無いのは、激情が内包されているからだ。紡樹は震えながらも風音の声に耳を傾けている。

 

「私は紡樹に救われた。あなたに出逢うまでは、私は自分に生きる価値なんて無いと思っていたのよ。皆、私の表向きの部分ばかり見て私の内側には触れようともしない。私の真っ暗な心を少しでも出せば、誰もが私から離れていく。でも、あなたは私を私のままで受け入れてくれたの。私を心ごと愛してくれた」

 

 紡樹は首を振り、暴れるように風音の腕を解きベッドから降りた。そして両腕で頭を抱えながら激しく首を振る。双眸からは止め処なく涙が溢れ、飛散する。

 

 俺はもう風音とは一緒に居られない! 風音が幾ら俺を想ってくれていても、俺はいつか風音を殺してしまうかも知れない。否、間違い無く殺すだろう。もう一度あの声が聞こえたら終わりだ! 一分、一秒でさえも俺は彼女と一緒に居るのが怖い。

 こんな精神状態で生き続けるのはもう無理だ。無理なんだ!

 

「風音、俺はもう駄目だぁぁ……!」

 

 紡樹は声を上げながら、部屋を飛び出した。風音は一瞬遅れて後を追ったが、理性のたがが外れて全力で駆ける紡樹は思いの外早く追いつけない。紡樹はパジャマで裸足のまま、凍えるような寝静まった街を走り抜けていった。風音はコートを羽織り、家の鍵を手早く閉めて追い掛けたが既に紡樹の気配は感じられず、彼女は近くの交番へと走った。

 三十分後、公園のベンチに座っている紡樹を風音と警察官が発見する。足の裏は血だらけで、視線は虚空を彷徨っていた。風音が目の前に立つと紡樹は逃げる素振りも見せずに、殆ど聞き取れないような声で呟く。

 

「もう俺には近付かないでくれ」

 

 その言葉で、紡樹の両頬を包もうとしていた風音の指が動きを止める。二人を永遠に分かつかのように、冬の凍て付く夜風が通り抜けた。

 

 そして、天頂へと気高い冷光を放つ月が昇っていった。

目次 第一章-15