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 何故今日も世界は続いている?

 皆に等しく同時に終焉が訪れれば、苦しみ続ける必要も、自ら命を断つという選択をする必要も無いのに。

 

 窓の外で木枯らしが吹く。恋人達はクリスマスに向けて浮かれ、仕事をする者は年内に片付けなければならない山積みの仕事に追われている。紡樹の精神は衰弱していく一方で、彼は風音と会う頻度も減らしていた。夜は眠れず、朝目覚めると昨日が今日に続いている事に絶望する。それでも彼は仕事だけは辞めなかった。仕事に集中している間だけは、余計な事を考えずに済んだからだ。

 今日は土曜日で、一ヶ月振りに風音と家で会う事になっている。紡樹は断ったが、風音はどうしても行くと言って聞く耳を持たなかった。

 窓は部屋の熱で曇り、紡樹は殆ど見えない外の景色を見詰めている。

 

 もう直ぐクリスマスか。毎年風音と一緒に過ごして、プレゼント交換をして来た。だが今の俺は誰かと喋る事は愚か、食事を摂るのさえ億劫だ。そんな状態の俺と一緒に居ても風音は苦しいだけだろう。それに、俺は風音と家庭を築いていける程長生きは出来ない。

 俺は死ぬ前に風音を傷付けないように別れなければならない。

 

 そう考えると呼吸回数は増し、紡樹は過呼吸に陥った。だが彼は傍らに用意してある紙袋を取り出し、口と鼻を覆う。その状態で呼吸する事によって症状は和らいだが、気分は落ち込み自分が正常で無い事を強く認識せざるを得ない。心療内科から処方された抗鬱剤と安定剤は服用していたが、一時的な効果を示すだけで快方に向かう事は無かった。

 ――何の苦痛も無く風音に悲しみを与える事も無く、俺そのものが消えてしまえば良いのに。何故この苦しみは消えない? 俺が一体何をしたと言うんだ!

 紡樹は何度も心中でそう叫んだ。だがその叫びは誰にも届かず、濁った水が張った彼の心の空洞に反響するだけだ。

 紡樹は風音が来る夕方まで身動きせずに布団の中でじっとしていようと決めた。今動き出せば、衝動的に自らを傷付ける気がしたからだ。それだけで済めば良いが、もし今死んでしまったら、風音に一生消えない傷を負わせる事になる。紡樹は頭まで布団を被り、きつく目を瞑りながら時が過ぎるのを待つ。

 

 時が停止しているかのような感覚に陥りながらも、掛け時計が時を刻む音だけが現実と錯覚の境界を隔てた。紡樹は秒針の音に集中し、一から六十のカウントを繰り返す。それが数十回終わる頃になると彼の意識は蕩け始め、半睡眠状態に陥った。全身が痺れ意識は曖昧で宙を漂っているように感じる。しかしそれは長くは続かず、紡樹は完全に眠ってしまった。

 

 遠くで複数の電子音が混ざり合っている。紡樹は最初の内は無視していたが、余りにも長くしつこいので目を開ける事にした。音が近くでクリアに聴こえる。深い睡眠状態から覚醒したばかりの紡樹には一瞬何の音か分からなかったが、テーブルの上で慌しく点滅する光を見て電話が掛かって来ている事と家の呼び鈴が押されている事を悟った。

 そうだ、今日は風音と約束していたんだった。いつも眠れないのに、こんな時に限って眠くなるとはな。それより早くドアを開けなければ。

 紡樹は階段を駆け下りる。それに合わせて電話と呼び鈴の音が止んだ。急いで玄関のドアのチェーンを外し、鍵を開ける。その先には、今にも泣き出しそうな風音が立っていた。彼女は無言で玄関に上がり、紡樹がドアの鍵を閉めるのを確認すると右手で彼の服の裾をギュッと掴んだ。左肩の鞄と、左手に持っていたスーパーの袋が足元に落ちる。

「家に居る筈なのに、物音一つしないから心配したのよ!」

 目は潤み顔は紅潮している。紡樹は一瞬本当の事を言おうか迷う。「下手に起きていたら俺は死んでいたかも知れない」と。だが此方を見詰める風音の不安げな顔を見ると、それを言うのは彼女を傷付けるだけだと判断した。

「ごめん。最近眠れてなかったんだけど、さっきは偶然眠れたんだ」

 紡樹のやつれ果てた顔に注意を向けて風音は絶句する。生気の無い目と落ち窪んだ頬、精神状態が一ヶ月前よりも確実に悪化しているのは疑い無い。しかも以前より随分痩せていた。風音は動揺を隠すかのように微笑みを作り、鞄と袋を拾って家に上がる。

「そうだったの。今日は私がご飯を作るから、しっかり食べて元気出してね」

「ありがとう、でも余り食欲が無いんだ」

 ――随分前から殆ど味も分からない。だが余計な心配は掛けたくない。否、そんな事を言っている場合か? 俺は風音と別れるんだろ。駄目だ、それを考えるとまた過呼吸になる。今日は出来るだけいつも通り風音に接しよう。

 これで会うのが最後になるかも知れないのに?

 

「紡樹! あんまり難しい顔で考え込んでても良い事無いよ」

 

 塞ぎ込む紡樹を風音は細い腕で抱き締める。紡樹は漆黒の闇の中に囚われた心に一条の光が射し込むのを感じ、風音を反射的に抱き竦めた。

 紡樹はその瞬間、人の温かさに驚いた。今まで、風音とは数え切れないぐらい触れ合っているのに、こんなにも熱を感じる事は無かったような気がしたからだ。彼女は今此処で生きている、それがはっきりと伝わって来る。同じように自分も此処で共に生きているという実感が沸いた。

「そうだな、俺も晩御飯手伝うよ」

「本当? じゃあ、お願い!」

 風音は足取り軽く二階へと上がって行く。それを見て紡樹は久々に微笑んだ。こんな自分と居るのにも関わらず、風音が以前と変わらず嬉しそうだったからだ。彼は最近は彼女を何処にも連れて行けていない事を思い出し、自分の精神状態が安定したらちゃんと一緒に出掛けようと思った。

 紡樹は死が自分から少し遠ざかるのを感じる。風音と共に作った夕食はとても美味しく、食事をする喜びを思い出した。風音は今日は泊まって行くと言い、死を意識せずに済んで居る事に高揚していた紡樹はそれを快諾する。

 二人は一緒に風呂に入り身を寄せ合う。そして、どちらからとも無く唇を重ねた。

 

 厚手の羽毛布団と毛布に包まれて、紡樹と風音は寄り添っている。風音は紡樹の左腕に頭を預け、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。紡樹は愛おしさが込み上げてくるのを抑え切れず、最愛の人を更に自分へと近付けた。風音は紡樹の胸に顔を埋め、彼の温かみを感じる。やがて風音の呼吸は規則正しくなり、紡樹も猛烈な眠気を覚えた。

 風音のお陰で、紡樹は何とか生きる事をやり直せそうな気がしていた。その証拠に、今までは体と脳が限界に達しない限り眠りは訪れなかったのにも関わらず、こんなにも早く眠気が彼を包んでいる。

 紡樹の指は、幾度か風音の髪をそっと撫でてから動きを止めた。

 

 カーテン越しに窓から月光が射し込み、二人の顔を照らす。

 風音の表情は満ち足りて穏やかだが、紡樹は額に汗を浮かべて顔を顰めていた。

目次 第一章-14