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 母の葬儀を終え遺骨を父と同じ墓に収めた翌朝、紡樹は仕事に行く気力が沸かずに休みの電話を入れた。フリーランスは会社員と違い、能力と実際に働いた時間に対してのみ対価が支払われる。長期間休む事は直ぐに信頼を失う事に繋がるが、今はそんな事はどうでも良かった。

 相変わらず眠りの浅い彼は、昼過ぎにようやく布団から抜け出したが、料理を作ってくれる母がもう居ない事を実感し塞ぎ込む。それでも空腹はどうしようも無いので、適当に服を見繕って外食する事にした。それに、母の気配が色濃く残る家から一刻も早く逃げ出したかった。昨日の天気とは違い、今日は今にも雨が降り出しそうな不機嫌な空だったが、彼は傘を持つ事すらも忘れて家を出る。

 

 駅前まで歩き、彼はファーストフード店に入った。平日の午後二時と言う時間の所為か、周りは夏休み中の学生か子連れの主婦が殆どで自分のような社会人の男は少ない。二階にある窓際の二人掛けの席に座り、ハンバーガーを紙袋から取り出し頬張る。視線は窓の外に向けられていたが、何かを注視している訳では無い。塩気の効いたフライドポテトも、食感だけしか分からなかった。

 周りの客が一巡し、やがて店は閑散として来た。雲は厚みを増し、街に不気味な程に濃い影を落としている。駅の出入り口が帰宅する人間を多量に吐き出す時間になると、雲は自重に耐えられなくなり、大粒の雨を落とし始めた。

 紡樹はその時初めて自分が傘を持って来ていない事に気付いたが、殆ど躊躇する事無く席を立ちそのまま店を出た。

「雨に打たれれば、この心に溜まった澱が洗い流されるかも知れない」

 心中でそう呟きながら、彼は雨の中を自嘲的な笑みを浮かべて歩く。

 

 行く当ても無く彷徨い歩いた末に、彼は高層マンションに囲まれた小さな公園に足を踏み入れた。水溜りの中に浮かぶ孤島のようなベンチに腰掛けると、彼の体が寒さで小刻みに震え始めた。雨が止む気配は無く、街灯が視界の隅で絶え間無く揺れ動いている。

「この世に、消えない意味を持つものなど存在しない。意味の無い世界でこれ以上生き続けてどうする?」

 紡樹はそう呟き、街が発する人工的な光で濁った空を見上げる。天空からは彼の心に突き刺さるかのように、無数の鋭い針のような雨が降り注ぐ。

 やがて彼の心に言葉が溢れる。

 

 何の為に生きるのか分からない。生きたいと願う者は生きている事に感謝する。だが、生きる事に意味を見出せない者にとって生きるとは何だ? それは親の望みでありエゴだ。望まないのに生きると言う事は苦悩と苦痛でしか無い。

 人は生まれる事を自ら選択出来ない。しかしどのように生きるかは、ある程度の範囲に於いて選択出来る。突き詰めていけば、最終的にどのように死ぬかを決められるのだ。生きる事に意味が無いとすれば、死ぬ事はどうか? 恐らく、死ぬ事そのものには意味が無いだろう。灰と化し自然に還るだけだ。だが、生きる事に一欠片の意味も見出せず、一秒生きる毎に心を抉られるならば、同じ無意味でも死を選ぶ方が賢明だ。

 彼は立ち上がり、自分に言い聞かせるような穏やかな声で止め処なく振り続ける雨に語り掛ける。

 

「死は究極の逃避であり救いだ。光の見えない闇の底で負の思考のループに囚われるという苦しみから解放され、もう意味に縋る必要も無いのだ」

 

 紡樹の頬を伝うものは、雨なのか涙なのか分からない。唯彼は、淡い光を受けて一人立ち竦む。もう其処から一歩も動けないかのように。

 溢れる言葉は一つの結論に集約されていく。

 

 生きる事に何の疑問も抱かない人間は幸せだ。有りの侭に日々を受け入れ、仮初めの希望を信じ自らの意味を疑わない。だが俺は知ってしまった。生きる事の不確かさと、無意味さ故の絶望を。人は一度知ってしまった事を取り消す事は出来ない。一度心に刻まれたものを無視する事も出来ない。だからこの苦しみも絶望も俺が生きていく中で一生付き纏うだろう。

 それを乗り越えて生きていく為には希望が必要で、希望は自己の中で揺るぎようの無い意味からしか生まれない。

 それから逃れるには、方法は一つしか無い。俺が俺を放棄する事。

 

 死だ。

 

 意味の無い生に終止符を打つのは、誰にとっても自由だ。もう一瞬たりとも生きる気力が無くなった時、俺は自らの生涯を終わらせよう。それは明確な未来で、確実に苦しみが終わる。だが俺はもう少しだけ、母と風音の為に生きる。それが俺を愛してくれた人達への、せめてもの恩返しだからだ。

 

 紡樹の決意に呼応するかのように、唐突に雨が止んだ。

 何処からとも無く、待ち焦がれたかのように、一斉に虫の音が響き渡った。

目次 第一章-12