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 果ての見えない、何処までも澄んだ天穹。其処に描かれる天に昇っていく一筋の煙。それを模写するかのように、紡樹の頬を涙が伝う。

 また誰かが天に還って行く。生きる苦しみから解き放たれて。

 立ち上る煙は人が火葬されている証。母さんの後に葬られている誰かの。

 

 母は病院に運ばれた時には既に激しい脳出血を起こしており、医師の治療も虚しくその晩には静かに息を引き取った。風音も駆け付け、紡樹は父の葬儀の時に世話になった葬儀会社に連絡を取った。その後、喪主である紡樹が時間的なゆとりを持てるようになったのは、母の火葬が終わった後だった。

 紡樹と風音は斎場を後にして、送迎用のマイクロバスへと歩いていく。

 

 ――どれだけ大切な人でも、結局最後は無機質な白い破片と灰に変わる。そんなものがその人間を支えていたなんて信じろと言う方が無理だ。焼かれる前の母さんはもう動かなかったが、それでも其処に存在すると実感出来た。だが壷に収まった白い「物」は、喪失の事実のみを伝える人の残骸だ。

 俺もいずれは、父さんや母さんと同じ道を辿る。関わった人間に思い出と悲しみを遺して、やがては動けない「物」になるのだ。どれだけ生きようが何をして生きようがそれに変わりは無い。変わるのは関わる人間と注がれる想いの多寡だけだ。

 いつ死んでも、大した違いは無い。

 母さんは俺に必要とされていたから、母さんの存在に意味はあった。でも俺が死ねば? 母さんの存在を必要とした者は居なくなる。人が生きる意味は、他者から必要とされている間は存在するが、永続的には存在しえない。つまり絶対的では無い。

 人は一時的な充足の為に生き、その為に果てしない苦しみを負うのだ。

 それなのにどうすれば希望など見える? 俺の心には、一日を生きる毎にどす黒く濁った水が注がれ、ドロドロとした拭い難い何かで窒息しそうになる。今までこんな事は無かったのに、どうして生きるだけでこんなにも苦しい?

 

 骨壷を収めた箱を抱え、蒼白な顔で俯き歩く紡樹の目を覚まそうとするかのように、風音がはっきりとした声で話し掛ける。

「大丈夫よ、紡樹はちゃんと此処で生きていて私も傍に居る」

 何が大丈夫なんだ?

 俺と風音が此処に居ても、絶対的な意味が生じる訳でも母さんが蘇る訳でも無い。

「お前に何が分かるんだよ! 両親共に健在で、何不自由無く育って来たお前に。俺は父さんが死んでから、ずっと母さんと二人だった。母さんはいつだって、俺の事を一番に考えてくれた。なのに俺は母さんに『ありがとう』の一言も言えなかったんだぞ!」

 紡樹が風音を「お前」という暴力的な代名詞で呼ぶ事は殆ど無い。そして代名詞よりも、名前で呼ぶ方が相手の心に響く事を知っているからだ。だが彼にはそんな事を考える余裕も無く、昂ぶる感情は彼から冷静さを奪っていた。

 風音は紡樹の言葉を聞いて暫く目を見開いていたが、何か込み上げて来るものを感じギュッと瞑る。彼女の両方の目尻から涙が一滴零れ落ちた。

 再び開いた目は何処までも暗く沈み込み、風音をよく知る筈の紡樹にさえ近寄り難い迫力があった。普段の華のある瞳とは遠くかけ離れた、負の感情を凝縮した鋭い瞳。どれ程の憎しみ、絶望、苦しみを感じればこんな目が出来るのだろうと不思議に思える程の暗い力が宿っている。

 口を開いた風音は、強く冷淡な口調で話す。

 

「生きている事が何よりの親孝行なの。紡樹は愛されて生まれて来た筈よ」

 

 ああ、そうだ。でもそれはお前も同じだろ。大事なのは意味なんだ。生まれて来たのなら、生きる為の絶対的な意味が無いと報われないんだ。俺は死んで灰になる為に生きて来たんじゃ無い! なのに意味は見付からない。生きるのに必要な希望さえも見当たらない。

 生き方が分からない。どうすればこの苦しみが終わる? 俺は毎日、絶望を抱え続けなければならないのか? もう思考の殆どが絶望に支配されている。俺の目には何もかもがネガティブに映り、楽しく生活していた時の事など思い出せない。

 苦しいのに救いは無い。風音は俺を助けてくれようとしているが、それすらも疎ましく感じる。俺の苦しみが風音に分かる筈は無いからだ。

 どうすれば良いんだ? 誰か俺を助けてくれ! 俺の苦しみを少しでも和らげてくれるなら、俺は何でもする!

 息苦しさを感じているかのように、紡樹は呼吸を繰り返す。前を見ているように見えて、実際には周りが何も見えていない紡樹を風音は真剣な表情で見守る。

 風音は、紡樹の心の揺らぎを無言で受け止めていた。

目次 第一章-11