第一章 縺れ行く心

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 電車を降り改札へ向かう、苛立ちを押し殺した無表情な人々の群れ。

 

 彼等は自らがどのように生きたいかを明確に示す事が出来ず、しかもそれについて特に疑問を感じる事も無く変化の無い日常を送る。自分は人とは違うと思っていても、自分が周りの人々と同じ表情をしている事に気付いていない。家を出て電車に乗り込み職場へと向かう。その時の自分と周りの人間の表情に少しばかり注意を向ければ分かるだろう。

 変化を恐れ惰性の為すが儘にされる、その生温い無意味さに肩まで浸かっているのにも関わらず、それに気付く事も無い人間が殆どだ。

 紡樹(つむぎ)は人々を客観的に見詰めていた。生気の無い人々を見て、一年前は自分もそうだったのかと驚愕する。細身のダークグレイのスーツを着込み、無駄なく歩く彼は集団に溶け込んでいるように見えるが、彼自身は耐え難い程の違和感に苛まれている。

 彼は自問する。

 

 ――一体、俺はこんな所で何をしているのだろう。

 本来ならば今頃、毎日を生きていく事に希望を持てない人々に、俺の書いた小説で希望を与えている筈では無かったのか?

 巷には心に訴えかけて来るものが何もない駄作が溢れているのにも関わらず、俺の作品は、誰にも希望を与える事が出来ないと言うのか?

 

 だが彼は答を出せない。より正確に言えば、答を出すのを恐れている。

 彼は三年間大手システムインテグレータで勤めた後、そのキャリアを捨てて昨年の春から今年の春に掛けて小説を書いていた。それ程までに小説を書きたいと思ったのは、「この国には何でもあるが希望だけが無い」と、ある本を読んで強く共感し、「それならば自分が人に希望を与えるようなものを書こう」と思い立ったからだった。

 しかし彼の書いた小説は、応募した文学賞の一時選考にすら通らなかった。彼自身は、少なくとも最終選考ぐらいには残るだろうと思っていたのにも関わらず。

 

 駅から会社への道程の約十分間、茹だるような盛夏の熱気の中を彼は歩いた。そして勤務先のビルに着き深く溜息を吐く。紡樹が、フリーランスのエンジニアとして仕事を再開してから一月が経っていた。現在彼はWEBベースで商品の販売や在庫管理が行えるシステムを作っている。

 

 ――今の俺の仕事は、社会の効率性を上げるという意味では役に立つだろう。だが、本質的には人の心を救う事にはならない。それでも有り難い事に俺の仕事振りは評価されている。ブランクがあり、モチベーションが上がらない中でも、同世代の他の人間に負けないように毎日努力をしているからだ。

 だがそんな事は慰めにもならない。

 執筆した小説は日の目を見る事も無く埋もれ、俺自身も時間と能力を切り売りするだけで、他の人間と代替可能な存在でしか無いからだ。俺は惰性で生きると言うぬるま湯に浸かり、日に日に誰かに希望を与えるという夢を見失っていく。

 

 紡樹は額の汗を真新しいハンカチで拭い、IDカードを取り出してビルの中に入って行く。その一連の動作は不慣れで少しぎこちないが、自信に溢れた歩き方と仕事に対する冷淡な目線が他者に付け入る隙を与えない。

 仕事は完璧にこなし、必要以外で人の助けは借りない。仕事とプライベートは切り離し、必要に迫られない限り極力残業はしない。それが、紡樹にとって理想像とかけ離れた現在に対するせめてもの反発であり、矜持だった。

 

 この日も彼は、定時までに求められていたタスクを全て終わらせ一人で帰路に就いた。

目次 第一章-2