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 紡樹の職場から自宅の最寄り駅までは一時間弱掛かる。最寄り駅から十分程度歩いた場所にある建売の住宅街の一軒が彼の家だ。三階建てで一階の半分がガレージとなっており、この住宅街では平凡な民家である。彼には兄弟がおらず、父親を中学の頃に喪った後は母親と二人で暮らしている。

 紡樹は帰宅後、いつものように三階の自室に戻って直ぐPCの電源を入れ、楽な服装に着替えてからこの日のニュースに目を通した。そしてそれを終えて寛いでいると、二階の壁を軽く叩く音が聞こえた。夕食の準備が整った合図だ。彼は二階のリビングに行き、食器をテーブルに並べ始める。

「紡樹、仕事の方はどうなの。上手くいってる?」

 母がそう言いながら、深い慈愛と僅かな不安が入り混じった視線を投げ掛ける。彼女は歳を重ねても美しいが、苦労と疲労が誰の目にも明らかな程にはっきりと刻まれている。

「……つまらない上にやり甲斐も無いけど、問題無くやってるよ」

 会社員だった時代、紡樹にとって仕事は面白く遣り甲斐があった。日々自分が成長していくのが分かり、周りの人間と競いながらも誰かに認められるのを嬉しく思っていた。だが今は違う。フリーランスとして働く以上、仕事が出来るのは当たり前で、スキルを積んでいくのを誰かに強制される事は無いが暗黙の義務である。そして、何より彼が気に入らないのは理想と乖離した自分を容認している事だ。今の彼はかつての彼が目指した姿では決して無いのだ。

「働けるだけ有り難い事なのよ」

 母が眉を顰めている事に気付きながらも、紡樹は視線を逸らさずに言う。

「俺がやりたいのは、こんな仕事じゃ無いよ」

 だが、生きる為には働かなければならない。彼もそれぐらいは分かっている。働きもせず無為に時間を過ごすよりはまだ働いている方がマシな事も。

「贅沢ばっかり。あんたは甘えてるのよ」

「そんな事は無い、今はちゃんと仕事してるだろ!」

 紡樹は声を張り上げた。その声の大きさに、母親だけでなく彼自身も驚く。その直後、母は頭を抱えて座り込んだ。紡樹は苛立ちを抑えられなかった事を後悔し、自身も座って母の背中を労わるように何度も擦る。

「母さん、ごめん。大丈夫?」

 母は苦笑を浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。

「ええ、最近少し頭が痛いだけ。それより、ご飯を食べましょう」

「あんまり酷いようだったら、一度病院に行かないと」

 真面目な母が、最近パートを休みがちなのを彼は知ってる。いつも気丈に振る舞い、弱音を吐かない母が仕事を休むのは「余程の事が無い限り」有り得ない事も。

「心配要らないわ。たかが頭痛じゃない」

 彼女は、有無を言わせぬはっきりとした声で紡樹を制する。紡樹は喉まで出掛かった言葉を辛うじて仕舞い込んだ。

 

 父さんも、そう言ってたじゃ無いか――

 

 二人はいつものようにテレビを点けて、他愛の無い話をしながら食事をする。テレビに集中している紡樹の横顔を、時折母は微笑みながらそっと見るが彼はそれに気付かない。

 彼女は昨年、息子が執筆をする為に仕事を辞めると言った時、敢えて止めなかった。子供の好きなようにさせてやりたいと言う思いもあったが、それ以上に彼には失敗も必要だと感じていたからだ。紡樹は幼い頃から、勉強も運動も人より出来た。それは彼が仕事を始めてからも同じで、周りの人間よりも少なからず優秀な紡樹は、惨めな気持ちに陥る事が無かった。しかし、今までやった事の無い執筆が最初から上手くいく筈が無い。多少優秀な程度で小説家になれるのならば、世の中は物書きだらけになるだろう。彼女は其処まで分かった上で紡樹に同意したのだ。

 やがて紡樹は小説を書き上げ、母はその原稿の最初の読者になった。そして彼女は自分の読みが正しかった事を知る。彼が最初に書いた小説は、市販の本だと言われても差し障りの無い程の文章力だったが、決定的に足りないものがあったのだ。

 

 それは、彼が伝えようとしている「希望」を語るには不可欠のものだった。

 

 彼女は気付いている。息子が徐々にではあるがそれを知りつつある事を。また、それを加速させるのが自分かも知れない事も。

 夜の帳が下り、紡樹の部屋が眠りの静寂で満たされているのを耳を澄ませて確認してから、母は静かに目を閉じる。

 やがて雨がしとしとと降り、昼間熱せられたアスファルトを冷ましていった。

目次 第一章-3