第十一節 懐矜(かいきょう)

 牢獄は凍て付く冷気で満たされている。この日、十二月五日は天界での冬に当たるので、寒いのは当たり前だが、牢獄の空気は「神術」によって冷却された人工のものである。牢獄には百の独房が存在するが、囚人は疎(まば)らである。ルナは、入り口に最も近い独房に入れられた。今宵の裁判で、親衛隊が彼を直ぐに連れ出す為だ。

 独房の入り口は鉄格子、周りは壁で、破壊されぬようどちらにも神術が張り巡らされている。どんな天使でも、これを破る事は出来ない。

 薄汚れた灰色の壁には、黒く固まった血の爪跡が残っている。投獄された者は此処で拷問と暴行を受ける。その苦しみから逃れようと、壁に爪を立てるのだ。

 ルナは無言だった。だがその瞳には、「決意」が燃え滾(たぎ)っている。

「……ルナのバカー! バカバカバカ!」

 リバレスが元の姿に戻り、全身を震わせて泣きながら叫んだ。まるで、体全体から感情と声を迸(ほとばし)らせているかのように。

「お前には……、本当に済まないと思ってる。だが自分の近しい者を犠牲にして、自由を完全に奪われてまで私は……、神官に従う事は出来ないんだ」

 リバレスは私を必要としてくれている。育ての親では無く、本当の家族として。彼女には親も、天翼獣の友達もいない。私が死ねば彼女は一人ぼっちだ。身寄りの無い世界で。

「それでもわたしは、ルナに生きて居て欲しいの!」

 私の肩に顔を埋めるリバレス。私は右手で左の上腕を握り、下唇を噛んだ。幾らお前が泣いても……、私はもう後戻り出来ないんだ。

「……ごめんな。お前には酷な話だが、私は今夜死ぬだろう。驕(おご)りかも知れないが、私はお前の親として生きたつもりだ。そして、私はお前のお陰で楽しく生きる事が出来たと思ってる。……ありがとう。私の最期の願いは、お前が『元気に生きる』事だ。生きてくれ、私の生き様を見届けて」

 リバレスの泣き声が独房一杯に谺(こだま)する。私も……、涙が零(こぼ)れた。彼女の頭をそっと撫で続ける。それが今、私が唯一出来る事だから。

 言葉も無く時間が流れる。私は懐中時計を取り出す。正午を十分回った所だ。普段なら昼休みだな。「ギィ……」、取調室の扉から光が漏れた。三人、こちらへ向かってくる。ジュディア、セルファス、ノレッジだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 号泣しながら駆け寄るジュディア。彼女の顔は、悲嘆と後悔に歪んでいる。

「何でだよ……! 馬鹿野郎」

 鉄格子を握り締め、その場に崩れ落ちるセルファス。その瞳からは雫(しずく)が溢れている。お前は……、私の誇れる親友だ。

「ルナリート君、僕は失望しましたよ。君は僕の目標だったのに、まさかこんな事になるなんてね」

 私を見下ろすノレッジ。その顔に浮かぶのは侮蔑のみで、心配は無い。私が囚われた事に優越感でも感じているのだろうか? 彼は常に私を目指し、勉強を積んで来た。目標である私が転落した事で動転しているから、と信じたい。

 私は、三人を静かに見詰め、口を開く。

「私がこのような状況に置かれたのは仕方の無い事だ。誰も悪くは無い。悪いのは、個人から自由を奪う天界を造り上げた神官だ。私は裁判で、全ての天使に対して『自由の尊さ』を叫ぶ。それで、私の遺志を継ぐ者が一人でも現れれば、悔いは無いさ」

 鉄格子が激しく揺さぶられた。髪を掻き乱すジュディアによって。

「ルナ……、貴方が居ない世界は、意味が無い! 私は裁判で、何とか貴方を守って見せる! それが私のせめてもの罪滅ぼしだから!」

「止めるんだ! それで、罪がジュディアにまで及んだら、私が真実をハーツに話した意味が無いだろ? これは私の戦いだ、自由な世界を勝ち取る為の!」

「でも、でも! こうなったのは私の所為なのよ!」

「気持ちだけ受け取っておく。ありがとう。だが、黙って私を見守って居て欲しい。それが、私にとって一番嬉しい」

 それでもジュディアは、何かを言おうとしたが、言葉にならないようだった。

 死ぬというのは、どのような感覚なのだろう。ジュディア達が帰った後、私は考えていた。命を奪われた天使を、私は何度も見てきた。だが、当然の事ながら私は死んだ事が無い。命を奪われた者は、その感覚を他人に伝える事が出来ない。だから、死は未知だ。

 震えている。寒さからでは無く……。死ぬのが怖いのだ。死ねば、私はどうなるのだろう。この思いは? 死にたくない! でも、天界を変える為には、死ぬしか無い。

 私は愚かなのか? 神官に従って生き、長生きする方が幸せだったのではないか? 否(いや)、何も考えず惰性(だせい)で生きる事など無意味だ。自己の考えを主張し、その結果待つのが「死」だとしても、その生には価値があるのだ。私は、死の恐怖を払い除け、決意を新たにした。

 無心に時計の針を見詰める。すると、何故か今までの人生が最初から思い浮かんだ。

 私は「封印の間」の正門前に捨てられていた。だから、両親を知らない。だが、私を包んでいた毛布に「ルナリート」と書かれていた為、私の名はその通りになった。その文字は、現在では使われていない「古代語」だったと言う。

 生まれてから三百年、クロムさんに育てて貰い、その後はハルメス兄さんと一緒だった。ジュディア達と友達になり、四人で遊んだ日々。自分が他人と違う事に悩みながらも、楽しい日々を過ごした。だが、兄さんが裁かれた後、私は天界を、神官を憎むようになる。

 兄さんの考えを受け継ぎ、学校に入学した。そして、リバレスと出会う……

 ふと肩を見ると……、リバレスの真っ赤に腫れた目が、こちらを見ていた。

「わたしは生きる。ルナに貰ったこの命を大切にして……」

「ありがとう……」

 私達の間にはもう、言葉は必要無い。私は、彼女に微笑んだ。

 後は、自分の命が尽きる刻まで、戦うのみ。

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