突如世界に起こった異変により、リルフィとフォルティスは会談の頻度を増やして世界中を視察して回った。だが異変の元凶と思しき者は発見できず、徒に時が過ぎて行く。唯、人々が徐々によそよそしくなり、時折敵意のようなものを向けられていると感じるようになった。今まで尊敬や畏怖の念を向けられるのに慣れていた二人にとって、漠然とした大衆の敵意は大いに心をざわつかせるものだった。

　赤い影の攻撃を受けたウィッシュは、リルフィの力で快方に向かい、一週間後には自力で歩けるようになっていた。ミルドにいるジュディアの元に戻った彼は、リルフィに感謝しながらも自分の不甲斐なさに臍を噛む思いで毎日を過ごしている。

　緊張感に満ちた秋がいつの間にか終わりを告げ、今年初となる雪が世界に降った日、再び事態が大きく動き出す。

　昨日から降り続いた雨は、深夜の凍てつく冷気により雪に変わった。ひらひらと舞い落ちる雪は、あらゆる場所を銀世界へと変えていく。それはミルドの丘でも同様で、瞬く間に穢れ無き純白の地へと変貌していった。世界は静寂に包まれ、何事もなく朝を迎えると思われたが、一部の人間や元天使・元魔は窓の外の雪を見ると家の明かりを点けて出立の準備を整え始めた。彼らは食料や水を持ち、武器を携える。目には強い決意が宿っており、簡単には彼らの心を動かす事はできないだろう。

　そして、彼らは日の出と共に一斉に動き出した。

　リルフィは昔からよく眠れる方だったが、赤い影との戦い以降は眠りが浅くなっていた。それにより、城の周囲がざわついているのに誰よりも早く気付く事ができた。彼女はシルクのネグリジェを脱ぎ捨て、直ぐに戦闘服に着替える。そしてオリハルコンの剣を携えて自室を飛び出した。

　城の屋上に立ち、朝陽に照らされる大地に目を遣ると同時に、リルフィは背筋が凍るのを感じた。武装した数万もの群衆が城を取り囲み、全員が自分に対して剥き出しの敵意を向けているのだ。これは、前回のように操られた群衆ではなく自発的に動き出して自分を憎む者達であるのは明白だった。

　群衆はリルフィの姿を見付け、地鳴りのような声で叫ぶ。

「神も獄王も要らない！　この世界は我々が協力して守るのだ！」

「支配は犠牲を生むだけだ！　奪われ続けるのを我々はもう許しはしない！」

「絶対的支配により、我々は思考停止に陥っていた。これからは自分で考え行動する！」

　リルフィはその声を聴き、彼らの感情を汲み取り一筋の涙を流す。

　今のようにロードとサタンが初めから協力していれば、不要な争いや犠牲は生まれなかった。そして、存在シェ・ファが殺戮者として現れる事も無かっただろう。

　わたしはどうすれば？　フォルティスやウィッシュ、ジュディアさんとキュアさんと話がしたい。と、リルフィは考える。しかしその直後、城壁に向けて砲弾が撃ち込まれた。リルフィは悠長に仲間と相談をしている時間は無いと悟る。

「（皆さんの仰る事は分かります。ですが、わたしに考える時間を下さい！）」

　彼女は群衆にそう意識を転送した後、城全体に強力な結界を張った。これで砲撃などのあらゆる物理攻撃を無効化できる。

「（フォルティス、聞こえる！？）」

　リルフィは遠く離れたフォルティスに声を掛ける。

「（このタイミングで僕に話し掛けるという事は、同じ事が起こったみたいだね）」

　二人はこの星の何処にいても、互いに意識を転送する事が可能である。他の者は二人の力を結晶化させた「転送の聖石」を使わなければ遠距離の転送は出来ない。

「（単刀直入に言うわ。以前のように赤い影は見当たらない。群衆は自らの意思で行動している。そうね？）」

「（ああ、その通りだ。そして前よりも遥かに数が多い。君は時間稼ぎの為に城に結界を張って僕に話し掛けている）」

「（あなたもそのようね。今から聖域に来れる？　これからの事を話しましょう）」

「（了解。結界を張っている限り、群衆が互いの城に攻め入る事は出来ないだろう）」

　リルフィはその言葉を聞き遂げてから、自らを聖域へと転送させた。

　リルフィとフォルティスは同時に聖域に到着した。リルフィはフォルティスの顔を見ると少し気が緩み、外気の寒さも相俟って意識が一瞬遠退いた。バランスを崩したリルフィの体をフォルティスはしっかりと支え、彼女がしっかりと立つのを待った。

「ごめんなさい、年上のわたしの方がしっかりしないといけないのにね」

　フォルティスは穏やかな笑みを浮かべて、首を横に振る。

「それはきっと僕よりも気負っているからだ」

　彼は父親達の戦いを実体験としては知らない。どのような思いで世界を守り、そして命を落としたのかを。その分、世界を守るという事に関しての気負いがリルフィよりは少ない、そう言っているのだ。

「ありがとう、もう大丈夫よ。これからの事を考えましょう」

　リルフィはそう言いながら、体の芯から温まったような気持ちになり表情が綻んだ。そして、二人はいつも通り大理石の椅子に座る。

「僕が推察するに、この一斉蜂起の裏には何者かがいる」

　フォルティスは前置き無く本題に入った。彼は元々不必要な話をする事を好まないが、今は全速力で頭を回転させ核心のみを追求している。

「わたしもそう思う。世界中の人々の意識を変え、しかもそれを今日まで隠し続けた。人間や元魔を遥かに凌ぐ力と知力を持ち、わたし達に対して途轍もなく深い憎しみを抱いている」

　フォルティスは頷き、言葉を紡ぐ。

「そして、今ではロードやサタンしか知らないような遠い過去の事まで知っているように思われる。何らかの手段で歴史を掘り返した者か、僕達でさえも知らない、遠い昔から存在する何者か、なのかも知れない」

「後者はありえないわ！　わたし達の祖先はずっとこの世界の全てを見守ってきたはずでしょう？」

　リルフィは首を大きく振りながらそう言った。

「あくまでも現状から判断しただけさ。僕も後者の可能性は薄いと思っている。けれど前者だとしても、今まで僕達に全く気取られる事無く歴史を遡る事が出来ただろうか？」

　二人は口を閉ざす。歴史を遡るには、この聖域や世界に散らばる遺跡を調べるだけでは足りない。過去の神や獄王は記憶の継承を行える為、天使や人間、魔に知られたくない事実を物理的に残す必要が無いからだ。

　二人が聖域に退避して僅か三十分、だが彼等にとって途方もなく長く感じた時間。その時間で二人は一つの結論を出した。今回の黒幕は少なくとも自分達の知らない者であろうという事だ。遠い過去から存在するかどうかは別として、自分達の知らない手段で情報を集め、自分達の能力の届かない場所で蠢いている。そして、以前現れた「赤い影」もこの件に関与している。

「さあ、手分けして黒幕を探しましょう。黒幕を抑え込んだら、わたし達の想いを人々に真摯に伝えるの」

　フォルティスは強く頷く。

「そうだね。僕達は決して『支配』と『犠牲』を強いただけじゃない」

　そう言って、聖域を飛び立とうとした、その時だった。

「（リルフィ、聞こえるか！？　）」

　切迫したウィッシュの声がリルフィの脳裏に響く。転送の聖石を用いてウィッシュが声を送っているのだ。

「（ええ、聞こえるわ！）」

　リルフィの声がウィッシュに転送されて、一瞬の沈黙が流れる。その沈黙は互いにとってよくない兆しである事をリルフィは直観した。

「（済まない、ミルドは『敵』の手に落ちた。俺も母も捕えられている）」

　苦渋に満ちたウィッシュの声が脳裏に響く。

「（敵って誰！？）」

「（それは言えない。多くの人間を人質に取られている）」

　今回の蜂起に加担していない人間を人質に取られたのだ。そして、ウィッシュやジュディアをも凌ぐ力を持つ者がミルドを急襲した、とリルフィは悟る。フィグリルやヴァリエンテに『敵』が現れず、他の場所に現れたのは、弱みを握った上で確実に自分達を追い詰めるつもりなのだ。

「（日没に、リウォル跡地まで来いとの事だ……）」

　その声の直後、剣がぶつかるような金属音と、野獣のように唸るウィッシュの声が響いた。そして、怒気を孕んだ叫びが届く。

「（リルフィ！　来るな、来ればお前が殺される！）」

　その声の直後、聖石が破壊されたのか何の音も聞こえなくなった。

　青褪めた表情を浮かべたリルフィがフォルティスの方を向く。すると、同様の表情をして立ち竦んでいた。

「母が人質に取られた」

　一言、そう呟く。リルフィはその一言を受けて、自分達以外の味方はもう敵の手に落ちたのだと理解した。この短時間でヴァリエンテに張られた結界を破り、強力な力を持つキュアをも捕える敵なのだ。

　長らくこの星を治めて来た筈の二人は、今までに感じた事の無い無力感に苛まれる。下手に動けば人質は躊躇いなく殺されるだろう。

　体の芯まで凍らせるような冷気が、聖域を包む。