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 放課後、螢華は美術教授の研究室に出向いた。二限の講義後、教授に「向日葵の墓」について尋ねると、驚愕と嬉しさを滲ませた顔で、放課後に研究室に来なさいと言われたからだ。教授の名は澪音(れおん)。彼は、三十台前半でありながら、この国を代表する芸術家で、母親は北欧人である。黒髪だが、顔は母親に似て美しい。

「失礼します」

 螢華がドアをノックすると、直ぐに返事があり彼女は中に入った。澪音は研究室中央にあるテーブルの前に、嬉しそうに笑みを浮かべて立っていた。テーブルの上にはホログラム発生装置があり、既に起動準備が完了している。彼に促され、螢華は装置から最も近い椅子に座った。

「美術専攻の生徒でも無いのに、あの絵を知っている人が居るのが嬉しくてね」

 この表情と装置を見る限り、この人は間違い無く「向日葵の墓」のデータを持ってる。一体どんな絵なのだろう。鼓動が早まるのがはっきり解る。

「お忙しい中、時間を取らせて済みません。絵のデータをお持ちなのですか?」

「勿論さ。そうじゃ無ければ、わざわざ此処に呼びはしないよ」

 彼は私にウィンクした。落ち着きが無い人。私は何だかこの人が苦手だ。本当にこの人が、世界的に有名な芸術家なのだろうか。ううん、人を見掛けで判断しちゃいけない。忙しい筈なのに、時間を割いて私に絵を見せてくれようとしているのだから。

「見せて頂けますか?」

「OKと言いたい所だけど、その絵について君はどれぐらい知ってる?」

 キラキラと輝く双眸が私を見詰める。私は思わず視線を逸らした。この人は、私に害意がある訳じゃない。唯、絵が好きなだけだろう。でも、やっぱり苦手だ。

「作者の名前しか知りません。確か、迎居 緋月ですよね」

「そう! 彼は、失った恋人の為にその絵を描いたんだ。絵が完成したのは、彼が三十六歳、恋人を失ってから十七年半後の夏だよ」

「十七年半、彼は恋人を想い続けていたんですか?」

「記録に残っていないから、断言は出来ない。けれど僕はそうだと思う。絵から想いが伝わって来るからね」

 澪音はそう言うと、何処か遠い目をしながら装置を操作し、実物と同じサイズで絵をホログラムで表示した。突如目の前に現れた絵は余りに大きく、一部分しか見えない。螢華は椅子から立ち上がり絵から一歩離れる。すると、全貌を見渡す事が出来た。

 

 刹那の後、螢華の全身は震え出す。

 溢れる涙が頬を伝い、彼女は立って居られず床に座り込んだ。

 

 間違い無い、この絵を描いた人はずっと恋人の事を想い続けていたのだ。限り無く深い愛情を、夭逝(ようせい)してしまった恋人に注いでいなければ、こんな絵が描ける筈が無い。描かれた女性もまた、絵を描いた迎居 緋月の事を誰よりも愛しているのがはっきり解る。二人の想いは消えずに此処に残り、三百年以上が過ぎた今も、見る者に生きる喜びを伝えてくれる。女性の隣にある白い石、彼女を見上げる犬、そして周りの向日葵は、全て二人にとって大切なものなのだろう。

 私は泣いている。どうしてかは解らない。でも、夢の中に出て来る光景が、この絵に描かれているものとよく似ている事だけは解る。

 

 馬鹿げた考えかも知れないけれど、私はずっとこの絵を見たかったような気がする。私が、この世界に生まれて来るよりも遥か昔から。何度も夢を見たのは、この絵と出逢う為だったのかも知れない。

 

 もっとよく絵を見たいのに、胸が詰まり涙が溢れて直視出来ない。

 ありがとう、切なる響きを持つその言葉が心の中で繰り返された。
目次 第三章-7