16

 

 目の前に在るのは、吹雪に閉ざされた世界。

 

 それなのに、私の脳裏には抜けるような青空と鮮やかな緑が浮かぶ。此処は間違い無く、夢に見た場所だ。凍り付いた平坦な土地と、それを挟むように朽ち果てた家屋が見えるけれど、それらは全て私にとって大切なものだったのだ。

 私はこの広い大地に今、一人ぼっちだ。でも寂しさは感じない。大自然の前では人間は無力だけど、想いは時を超えて此処にある。

 螢華は目を閉じて、平坦な氷の上を歩き始めた。

 

「ひづき」

 

 彼女の口から、零れるようにその言葉が発せられた。その瞬間、彼女の心の中に眠っていた記憶が、闇の中に生まれた光が拡散していくように、凄まじい勢いで蘇り始める。

 

 緋月、向日葵の墓を描いた人、違う。私の絵を描いてくれた人だ! 大切な、誰よりも愛する人。いつも私の我儘を優しく聞いてくれた人なのだ。絵に描かれた少女は私、陽草 雪那。そして、犬の名前は柊だ。

 

 トワの時も雪那の時も、貴方は私を目一杯愛してくれた! それなのに私は、いつも貴方より先に死んで「永遠」に還ったのね。ケイ、緋月、私は貴方に悲しみを背負わせた。逆の立場だったら、きっと私は耐えられない。

 

 貴方の声、温もり、全部思い出した。

 

 ケイ、丘の上で泣いていた私に、結婚しようって言ってくれてありがとう。ユメを抱きながら私の歌はずっと聴こえると言ってくれて、私は死の恐怖を忘れる事が出来た。

 

 私の歌、今も聴こえてるよね?

 

 緋月、幼い頃から一緒に居てくれてありがとう。恋人にしてくれた事、私の誕生日に指輪をくれた事、涙が出る程嬉しかったわ。家に泊まりに行った日、泣いちゃってごめん。

 

 螢華として生まれて、誰も好きになれなかったのは、今も貴方以外を愛する事など出来ないから。どんな時でも私の心を温めてくれて、私の傍に居てくれた貴方を、私は永遠に忘れたりしない。

 

 螢華はマスクとゴーグルを取り、目を開く。彼女の瞳には、真っ白な大地では無く、太陽の光を浴びて生き生きと輝く向日葵と、その中央に立つトワの墓が映っていた。

 漆黒の長い髪を揺らしながら、彼女は氷の中心に向かって歩く。其処には、長い年月で風化し小さくなっているものの、原型をはっきりと留めた白い墓標が見えていた。今もトワが眠った証は残っているのだ。

 

 墓標に触れられる場所まで歩いた螢華は、しゃがんでから二度深呼吸して手袋を外す。そして石に触れた。トワ、ケイ、ユメ、緋月、雪那、皆の想いが詰まった石に。その瞬間を世界は待ち望んでいたかのように、唐突に吹雪は止んだ。

 

「私との約束、二つとも守ってくれたんだね。ありがとう」

 

 一つは、この石と共に私を眠らせた後、緋月になっても私の(こえ)を聴いてくれた事。

 もう一つは、世界的に有名になるぐらいまで頑張って、私の絵を描いてくれた事。

 

 ごめんね、嬉しいのに涙が止まらないの。

 螢華は涙を拭う事も、悴む手を温める事もせず、祈るように石を見詰める。

 やがて一片の雪が頬に触れ、彼女は立ち上がった。そして目を細めながら周囲を見渡す。

 

「今は、この世界に向日葵は咲かない。でも……」

 

 私には、はっきりと見えるの。緋月と一緒に過ごした向日葵畑が。それだけじゃ無い。絵を描く緋月、その隣でフルートを吹いていた私、足元を駆け回る柊が此処に居る。

 瞳を閉じれば、丘の上で歌う私と、毎日迎えに来てくれるケイが見えるわ。ケイも緋月も、寒がりの私に熱をくれた。

 

「会いたいよ、ケイ、緋月」

 

 それが贅沢で我儘な願いなのは、十分解ってる。ケイも緋月も、私と過ごした時間より遥かに長い時間を一人で過ごしてるのだから。

 螢華として、貴方に逢えるかどうかは解らない。それでも、私は一生捜し続けるからね。

 彼女は涙を拭って空を見上げた。限り無く白に近い青色の。厚い雲から淡雪が舞い降り、彼女をそっと包む。

 

 螢華は墓に背を向け、スノーモービルに向けて歩き出した。しかし、三歩歩いた所で足を止め、何かに驚いたかのように目を見開いた。

 そうだ! 緋月にもう一つお願いしていた事があった。そのお願いがどうなったか確認しないと。

 彼女はスノーモービルまで戻って座席を開け、中から折り畳み式のスコップを取り出した。そして墓へと全速力で走る。

 氷がそんなに厚くなくて良かった。これなら何とかスコップで割れる。

 螢華は手袋を装着し、数十回、墓の東側に張った氷を叩いた。少しずつ割れていく氷の破片を、彼女は手で取り去る。

 数分後、スコップは土に到達したが、彼女は構わずに掘り進めた。

 疲労で腕が痺れ始めた頃、土の中から銀灰色の箱が現れた。スコップが触れた時、甲高い音がしたので何らかの金属である事は確かだ。

 こんな箱、私は知らない。きっと緋月がお願いを聞いてくれたんだ。手紙に書いた、「ペアリングを二つとも埋めて」と言うお願いを。シルバーのリングだから、きっと変色してるだろうなぁ。

 彼女は指輪の煌きを思い出して微笑みながら、箱を包むビニールを剥がした。そして、そっと蓋を開ける。其処には、古びた小箱が一つ入っていた。

 この小箱、ペアリングが入ってた箱だ。でも、箱が一つなのはどうしてだろう? 緋月は私の悲しむような事はしないから、箱を無くしたりはしない筈。

 首を傾げながら、螢華は小箱を開けた。

 

 何、これ?

 

 小箱には、彼女の見た事の無い、真新しい指輪が入っていた。プラチナ製で、ハート型のブルーダイヤモンドがセットされている。

 意味が解らず、指輪を目に近付けたその時だった。

 

「あーあ、何で開けるんだよ」

 

 一人の男が螢華の背中に声を掛けたのだ。驚いた彼女は、思わず指輪を落としそうになった。男は苦笑を浮かべながら、彼女に近付く。

「悠陽さん? どうしてこんな所に居るんですか」

 何がどうなってるの? 指輪の意味も、彼が此処に居る理由も、そして彼の言葉の意味もさっぱり解らない。

「らしくないな。いつも俺の考えを読んで、先に行動してた癖に」

 螢華が訝しげな顔で悠陽を見詰めると、彼は溜息を吐いた後に口を開いた。

 

「六年前までは、その箱の中に小箱が二つ入っていた。雪那が望んだ通りに」

 

 螢華は大きく目を見開き、悠陽に駆け寄ろうとしたが、彼に制止された。

「六年前、丁度今と同じように、俺は此処に来たんだ。表向きは研究目的だったけど、本当の目的は別にあった」

 悠陽さんは緋月の記憶を持っている! ケイの心を受け継いだ人は、この時代にも生まれているって、私はどうしてもっと早くに考えなかったのだろう。ケイも緋月も、私を一人ぼっちにはしなかったのに。

 

「まだ生まれているかどうかも解らない、トワと雪那へ新しい指輪を贈る為に、俺は此処へ来たんだ」

 

 緋月でさえ、トワの事は覚えていなかったのに、貴方は思い出したのね。

 あぁ……、何の指輪かようやく解った。貴方はどうして、いつも黙って私を喜ばせようとしてくれるの? この指輪は婚約指輪なのね。いずれ生まれるであろう私へ、ペアリングの代わりに婚約指輪を用意してくれたんだ。

 貴方が守ってくれた約束は、二つじゃ無くて三つだった。

 

 螢華は悠陽の顔を見詰めていたが、彼女には彼の顔が見えていなかった。溢れ出る紅涙が、視界を滲ませているからだ。

 

「はぁ……、何で開けるんだよ。俺の計画が台無しじゃ無いか」

 

 台無し? 私がこの箱を開けるとまずい事でもあったのだろうか。……あった。入っていた指輪の意味が解らず、私は緋月が別の誰かに贈った指輪を埋めたのかと思ったのだ。

 私と離別する為に。

 よく考えれば、そんな事がある筈が無い。緋月はあの絵を描いたのだ。私の心の全て、ううん、雪那そのものを焼き付けたかのような絵を。

 

「今回俺が此処に来たのは、箱の中に君への手紙を入れる為だった。その手紙を君が読むと言う事は即ち、君が過去を取り戻した事を意味する。それなのに、俺が地面を掘り返す前に君は来た。俺がどれだけ驚いたと思う?」

 

 ちょっと待って、何かおかしい。今回彼が此処に来たのは、私への手紙を残す為……

 それなら、彼はもっと前から私が雪那だと知っていた事になる!

 

 螢華は悠陽の目の前に立ち、喜びと悲しみ、懐かしさ、何より寂しさが滲んだ顔で彼を見上げた。

 

「いつから気付いてたの?」

「君が絵を見て泣いていた時から」

「それだけで私だと解ったの?」

「向日葵と音楽が好きで、あの絵を一目見ただけで泣いてしまう人間は限られるだろ。それに……」

 悠陽は何処か遠い目をしながら、トワの墓標の方を向いた。螢華も涙を拭い、白い石を見詰める。それだけで、悠陽の言いたい事が解った。

「歌を聴いたからな。君が音楽会社に入社してから作った歌を全て。その中に、トワがいつも歌っていた歌があった」

 

「君って呼ばないで。貴方らしくない」

「貴方もおかしいだろ? 螢華」

 

 名前を呼び捨てにされた事で、実感が沸いた。本当にこの人なんだって。

「悠陽……、どうして今まで黙ってたの? 私よりも先に、私が雪那だって気付いてたのに。それに、トワの事もずっと前から知ってたのよね?」

 悠陽は右手の手袋を外し、指先で螢華の涙を拭った後、自分の胸に抱き寄せた。螢華は彼の背に手を回し、潤んだ瞳で彼の顔を見詰める。

 

「永遠は、人に教えて貰うものじゃ無くて、自分で気付くものだからな。それは、雪那が一番よく知ってた筈だろ」

 

 そうだ、私は緋月に永遠について説明した事がある。でも解っては貰えなかった。自分自身が、永遠に触れている事を理解するには、それを感じ取るしか無いのだ。少しでも早く私が雪那だと伝えて貰えたら、一緒に過ごせる時間が長くなるのにって思ったけど、私自身が雪那に気付かなければ意味が無いんだ。

「ごめん。ケイと緋月が、私を喪ってから過ごした時間に比べれば僅かな時間なのにね」

 また泣き出しそうな螢華の頭を、悠陽はそっと撫でた。

「寂しがり屋だからな」

「うん」

 二人はどちらからとも無く、唇を重ねた。まるで、そうする事が当たり前かのように。冷え切った二人の唇が熱を帯びる。絡み合う舌から熱が顔に広がり、やがて全身を包んだ。

 

 三百五十年以上もの時を超えて伝え合う熱は、以前と何も変わりはしない。

 

 螢華がいつまでも、唇を離そうとしないので、悠陽は彼女を抱き締める力を緩め、背中を指でそっと叩いた。それがキスを止める合図だと気付き、彼女は渋々唇を離した。

「私への手紙、何て書いてあるの?」

 彼女がそう訊くと、悠陽は悪戯っぽく笑う。

「さあな。賞味期限の切れた金平糖を、俺に食べさせた奴には教えられない」

「えっ? いつ食べたの」

「それも想像にお任せするよ」

「もうっ!」

 涙が溢れた。きっと緋月は、私の手紙を読んだ時に食べてくれたのだろう。恐らく、絵を描いた後だから、十七年半も放置された金平糖を……

「泣くなよ。手紙はもう必要無いんだ。こうやって、思った事を直接伝えられるから」

「うん、またずっと一緒に居てね」

「当たり前だろ。俺達の命は有限だから、刹那の間も無駄には出来ない」

 そうね、永遠に還って世界を巡り、また逢える日は来るけれど、逢えない時間の方がずっと、ずっと長い。

「螢華、そろそろ手に持ってる指輪を返してくれないか」

「えっ、どうして? 私にくれるんじゃ無いの?」

「ちゃんと渡したいんだ」

 悠陽はそう言って螢華が持つ指輪を取り、彼女の目を見詰めた。その後何が起こるか、二人共解っていたが、緊張が奔る。彼等にとって、人生に一度あるか無いかの出来事だからだ。

 

「今度は長生きしてくれよ。それから、自分の気持ちを犠牲にしてまで、俺の事ばかり考えるな。螢華は自分が一番幸せだと思う生き方をすればいい。それが俺にとって一番幸せだから」

「うん。悠陽の方こそ、私が我儘ばかり言ったら止めてね。出来るだけ長生きするように頑張るけど、悠陽が先に死んじゃうのは嫌」

「はいはい、早速我儘だな」

「我儘じゃないよ。悠陽には長生きして欲しいもん」

 

「じゃあ二人共長生きで決定だな。螢華、結婚しよう」

「うんっ! 喜んで」

 

 悠陽は螢華の手袋を外し、左手薬指に婚約指輪を通した。かつての空のように真っ青な光が、彼女の指から放たれる。その光を見て、悠陽は忘れていた事を思い出した。

「あっ、そう言えばもう一つ約束してた事があったな」

「ん? まだ何かあったっけ」

「螢華と交わした約束があっただろ?」

 私と? 此処に来るまでは、助手と生徒だけの関係だったのに。

「ちょっと此処で待っててくれ」

 悠陽はそう言うと、廃墟の陰に止めた自分のスノーモービルに行き、肩幅ぐらいの長さと、掌ぐらいの円周がある金属の筒を取って帰って来た。

「何、それ?」

「此処にあるボタン、押してみてくれ」

 螢華は言われた通り、筒の表面にある小さなボタンを押した。すると、「カシャン」と言う音と共に、筒を覆う金属が両端に向けてスライドし、収納されているガラスケースが見えた。螢華は、これが植物の培養装置だと知っていたが、中にあるものを見て声を上げる。

「えっ! これは本物なの?」

 

「ああ、三百年振りに咲いた向日葵だ」

 

 果たされた約束は四つだった。嬉し過ぎて、私はどうにかなってしまいそうだ。螢華として生まれて、初めて見た本物の向日葵。私達と共に在り、私を此処に連れてきてくれた花。それは一輪でも気高く、小さな太陽にすら見える。

 私には解る。悠陽が向日葵を蘇らせたのは、私を喜ばせる為なのだと。私がこの世界に生まれている事を知る前から、植物学者になって私の大好きな花を咲かせようとしていたのだ。もし悠陽が生きている間に私が生まれなかったとしても、向日葵を咲かせた彼の名は残る。ううん、名前だけじゃ無く、墓の下に私へのメッセージをそっと残すだろう。

 

 伝えたい想いを伝える言葉は少ない。だからこそ、触れ合って言葉が足りない部分を伝えるのだ。二人が伝え合いたい想いに一番近い言葉、それは……

 

「愛してる」

「俺も愛してるよ」

 

 二人は抱き合いながら、その言葉に想いを精一杯込める。この瞬間に伝えられない想いは、一緒に歩んで行く中で伝え合うだろう。

 死と言う別離は悲しみを伴うが、永別では無い。

 

 地平が夕紅に染まる。やがて世界は闇に落ちるだろう。だがその闇は完全では無く、いつも月華に照らされている。そしてまた朝が訪れる。真新しい、純白の朝が。

 

 万物は巡り続ける。永遠と言う終わりの無い夢の中で。

 想いもまた、永久(とわ)に――
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