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 雪那の母に了解を得た当日から、緋月は向日葵畑で、朝から晩までデッサンを描き続けた。昔と変わらない丸テーブルに道具を置き、かつて自分が座っていた椅子に座りながら。

 静かだった。キャンバスに描き込む手を止めると、通り抜ける風の音しか聞こえない。だが、目を閉じると過ぎ去った時間が蘇る。

 雪那のフルートの音色、柊の鳴き声。雪那が持って来た、紅茶とクッキーの匂い。

 緋月は、絵を描くのに際して雪那と柊の写真が必要だと思っていたが、その必要は無かった。此処に座っていれば、写真よりも遥かに鮮明に昔を思い出せる。

 雪那、人間の記憶って不思議だな。仕事をして、世界を巡っている間に、昔の事は朧気になってた。なのに此処にいるだけで、今はあの時の続きのような気がするんだ。

 ついさっきまで柊が鳴いていて、雪那は今家にお菓子を取りに行っている。ふと、そんな考えが()ぎる。

 

 絵には、雪那と向日葵、柊と白い墓を入れないとな。雪那は可愛く描くから安心しろよ。いっつも俺の事を考えてて、甘えん坊で寂しがり屋。なのに、本当は俺よりもずっと(つよ)い。一途なのに計算高い所もあったな。でも、花火の夜に俺が指輪を渡した時は、予想外だっただろ?

 緋月の脳裏には、雪那が見せたあらゆる表情が思い浮かぶ。満面の笑顔、頬を朱に染めた嬉しそうな顔、自分と離れる時に見せる寂しそうな顔、川に落ちた後の涙、指輪を渡した時の幸せな涙、そして一夜を共にした時の悲壮な決意に満ちた顔。

 緋月は、雪那の表情を思い出す度に、キャンバスに描いた。構図を決めるよりも、先に雪那の表情を全て描いておこうと決めた。

 

 半年が過ぎ、雪那を描いたデッサンは二百枚を越えた。デッサンの雪那は全て、表情とポーズが異なる。基本的には十八歳の雪那を描いているが、幼少の雪那も数枚書いた。

 最終的に緋月は、白い墓の横でフルートを持って緋月に笑い掛ける雪那を描く事に決める。それからは構図で悩んだ。絵の中で、一番表現したいのは雪那だが、背後に広がる向日葵畑も手を抜く訳にはいかない。だが、向日葵を強調すれば雪那が霞んでしまう。

 構図を決めるのにも一ヶ月掛かった。雪那と墓標はキャンバスの中央に、それを包むように手前も奥も端まで向日葵畑、そして柊が向日葵の根元に座って雪那を見上げる構図にした。

 キャンバスは五十号のPという大型のものを横にして使う。縦が八百三mm、横は千百六十七mmだ。緋月がこれまでに描いた絵の中で最も大きい。この絵で表現したい事が余りにも多い為、このサイズになったのだ。

 

 構図を決め、下書きを描き始めた日、緋月はふとカレンダーに目を遣る。

 雪那の命日だった。

 

 それから緋月は、取り憑かれたように無心に手を動かした。描きたい絵の完成形は既に頭の中にある。後は現実の絵を如何にそれに近付けるかだけだ。

 期限は、八月五日と決めていた。

 

 完全に雪が融ける五月までに、雪那と柊がほぼ完成に近付いた。向日葵と墓は、実物を見ながら描くつもりである。

 絵に描かれた雪那は、正に雪那そのものだった。彼女から感じる空気までも的確に表現されている。それは、生きているように見えるというレベルでは無く、彼女自身が絵の中に居るのだ。目の前に居る緋月に対して、愛おしさを隠し切れない雪那が。柊も、絵から飛び出しそうな程の躍動感に溢れている。

 畑から雪が消えると、緋月はイーゼルごと絵を畑に運んだ。その日から、畑に向日葵の種が植えられるまで、主に墓の描写をした。彼は、墓をじっと見詰めている内に、妙な感覚を覚える。

 

 俺はこの石を、畑では無い別の場所で見た事があるような気がする。此処まで運ぶのは大変だっただろうな。

 

 そんな考えが頭に浮かんだのだ。そして彼は、閉じた瞼のずっと奥で、今までに一度も見た事の無い光景を見た。

 

 この石を中心に、世界の全てが凍り付いている。大地も山も、海さえも。それでも人の想いは消えないんだな。

 

 緋月は暫く思索に耽っていたが、常識とは掛け離れた考えや感覚を、疲れている所為だと決め付け絵に集中した。向日葵が咲き始めるまでには、大地と全ての向日葵の茎の部分が描けていた。

 七月の下旬、黄金色の向日葵が咲き誇ると、緋月は寝る間も惜しんで一気に花の部分を描き上げる。キャンバスの中で、描かれていない部分は無くなった。だが緋月は筆を止めない。

 この絵に雪那だけが描かれていたら、もう描き直す所は無い。だがこの雪那は、向日葵に包まれている。雪那の向日葵に対する愛情が描かれていないんだ。

 誰が見ても完成しているであろう絵に、緋月は期限前日まで筆を加え続ける。

 

 八月四日。

 この日、画家・迎居 緋月の最高傑作、「向日葵の墓」が完成した。

目次 第二章-20