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 緋月は極力飛行機を使わずに、一ヵ月半を掛けてこの国を巡り歩いた。砂漠にあるオアシス、高原にある海のような広さを持つ湖、数々の遺跡……。それぞれの場所で新たな出会いと、発見があった。だが彼は、生きる意味、答を見付けられていなかった。自分の生を実感し、生きたいと言う意志を持てるようにはなったが、肝心の答がまだ見付からない。

 

 最後に、緋月はこの国で最も有名な、高地にある遺跡を目指す事にした。

 

 首都から目的地に最も近い空港まで飛び、空港からはバスに二時間程乗る。バスを降りると、其処には自然と共生する古びた街があった。白と茶色を基調とし、派手な色は余り見られない。標高は三千mを超え、随分酸素が薄いが緋月は息切れしていない。数週前に訪れた高原の湖の方が此処よりも千m以上高く、其処で高山病に苦しまされて、高地への対処方法を学んだからだ。

 周りの観光客がぐったりしている中で、緋月は早速宿を探す。その動きには最早迷いは無い。言葉も随分と流暢に話せるようになっていた。

 一般の観光客は、この街から電車とバスを使って遺跡に向かう。だが緋月は、徒歩で遺跡を目指す事を決めていた。電車とバスなら数時間で遺跡に着くが、徒歩なら四日掛かる。

 さて、宿も決まったし、物資の補給と情報収集だな。ついでに、夕食は豪勢にしよう。明日からはバックパックに入ってるものしか食べられないからな。

 緋月は颯爽と街へ繰り出す。彼の顔はこんがりと日焼けしていた。

 

 翌朝七時に、緋月は宿を出た。体調は完璧だったが、念の為高山病の薬を飲むのは忘れない。気温は七度、一点の曇りも無い空が眩しい。二十キロを超える荷物が肩に食い込むが、緋月は清々しい朝に感謝した。

 街を出ると、其処は高山の只中だった。無数に連なる岩山は、絨毯のような緑に覆われ、所々地肌を剥き出しにしている。疎らに木はあるが、急斜面には生えていない。遥か彼方に薄っすらと見える峰は、雪を被っていた。

 空に果ては無い。上を向いても、山の向こう側を見ても無限に続いている。故郷の空も広かったが、この地の空は透明度が違う。まるで、自分が天空を漂っているかのような錯覚を緋月は覚えていた。

 初日は二十km程歩き、開けた場所にテントを張る。眠る前に見た星空は、今までの人生で見たどの星空よりも美しく、壮大だった。天を埋め尽くす無数の綺羅星、その一つ一つが、この星と同じように宇宙に浮かんでいると考えると、緋月は自分自身が途方も無くちっぽけで、微妙なバランスの上で生きているのだと思い知らされた。

 二日目、山は霧に覆われていた。二十m先さえも霞んで見える。だが緋月は、無心に歩を進める。遠くの景色は見えないが、唯歩く事で先に進んでいる実感を覚えた。

 三日目は雨が降り、足元に気を付けながら歩く。登山道は整備されているので、余程の事が無い限り怪我をしたりしない。だが、時折現れる石畳の上では滑った。この日は、複数の遺跡を通った。こんな高山に、整然と石が積み上げられた建築物がある事に緋月は驚嘆する。しかし雨により視界は悪く、体力を奪われていた緋月は景色を楽しむ事は出来ずに、唯ひたすら先を急いだ。目的の遺跡近くの場所まで辿り着いた時、緋月はテントを組み立てる余力は無く、岩陰に寝袋を敷いて携行食糧を一齧りして眠りに就いた。

 

 朝陽が上る。昨日までの悪天候が嘘のように、空には光を遮るものが何も無い。霧も消え、眩い光が緋月を照らした。

 ん……? 朝か。眩しいな。

 緋月は寝袋から這い出て、目を擦る。彼方の山までクリアに見える。そして、眼下には目的の遺跡が広がっていた。だが緋月は、山でも遺跡でも無く、足元に咲く一輪の真っ白な花に目を奪われる。朝露に濡れ、光を浴びて輝く生命の躍動感に溢れた花だった。

 こんな高地で、あれだけの雨に打たれながらも朝陽を浴びて咲いている……

 緋月はその場にしゃがんで、花に顔を近付けた。新雪に似た、純白の花。指で軽く触れると朝露が落ちて、地面に吸い込まれた。

 昨日降った雨は、俺にとっては体力を奪うものでしか無かったが、この花にとっては生きる為の恵みの雨だったのだ。雨は、この山に染み込み川に流れ込み、その川はやがて海に注ぎ込むだろう。海の水は、太陽の光を浴びて蒸発し、それが雲となりまた雨を降らせる。この世界のあらゆるものは循環しているんだ。

 緋月は其処まで考えた瞬間、雪那との会話が脳裏に蘇った。

 

「私ね、『永遠』ってあると思うの」

「……人は死ねば、土に還るのにか?」

「そうよ。でもね、例え土に還ったとしても消えないものがあると思う。それは、この世界を巡っているものよ。上手く言えないけど、人も動物も植物も、死が終わりじゃ無い」

 

「私達は死の後に、私達の想像を超えた何かと結び合って、永遠に巡り続けるの」

 

 雪那! ようやく雪那の言いたかった事が解ったよ。「永遠」は、この星そのものなんだな。人が死んで土に還っても、消えた訳じゃ無い。人を構成していたものは、全てこの星の中を循環するんだ。この世界のあらゆるものは、この星から生まれた。だから、生まれたものは星に還り、また新たなものとして生まれ変わる。もっと視野を広げれば、この星自体も宇宙という永遠の一部なんだ。

 人の想いは、脳の中でしか存在しない。それが科学的な回答だろう。しかし、想いを永遠が受け取り、それも循環するとするならば、雪那が太古の記憶を持っていても不思議じゃ無い。馬鹿げた考えと笑われるかも知れない。だが俺は決めた。

 

 そう信じ、生きていく事を。

 

 雪那は俺より先に、永遠の中に還っただけなんだ。俺もいつかは解らないが、必ず還る日が来るだろう。だからこそ、未来で俺達は必ず再会出来る。それが百年後か、一億年後かは解らない。でも雪那、大丈夫だろ? 俺達が一緒に生きたのは、これで二回目なんだから。

 

 緋月は立ち上がり、遺跡に視点を移す。山の頂に現存する精緻な石造りの遺跡、それは雄弁に物語っている。人の叡智、そして力強さを。

 緋月は荷物を纏めて、遺跡に向かって歩き出す。その顔は、この空のように晴れ渡り一点の曇りさえ無い。

 俺は、「死んでしまった雪那」の為に何かをする事は出来ない。だが、永遠の中に居る雪那の為になら出来る事がある。それは、約束を果たす事だ。

 

 俺は、自分の絵の技術を納得いくまで高め、雪那の絵を描く。

 向日葵畑の中で、俺に笑い掛ける雪那の絵を。

 

 それからだな。俺が、自分の為だけの人生を歩むのは。

目次 第二章-16