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 風音が施設に入所して間も無く、長い冬が訪れた。施設の外は吹雪で、入所者は建物の中でじっとして居るしかない。彼女は周りの大人や子供達に常に笑顔を振りまき、皆に愛されていた。それは彼女が、この施設以外に自分の居場所は無い事を幼心に分かっていたからだ。

 風音は布団で眠る時に、毎日のように声を出さずに泣いた。自分の信じていた世界が一瞬にして崩れ去る理不尽さと、頼れるものの無い自分自身の非力さが彼女の心を甚振る様に何度も締め付けるからだ。時折聴こえる誰かの啜り泣きを聴き、彼女は気付いていた。苦しみと傷を負いながらも懸命に生きようとしているのは自分だけでは無い事を。

 

 冬の名残を残したまま春が終わり、短い夏が始まった。

 その日は、陽射しが強く風も殆ど吹いていなかった。施設の庭には多くの向日葵が咲き並び天を仰いでいる。風音は時折向日葵を見詰めながら、砂場で一人遊びをしていた。其処に施設の女性職員と、三十代半ばと思われる見慣れない男女が近寄って来た。

「風音ちゃん、このお二人にご挨拶して」

 風音は立ち上がり笑顔を浮かべ、男女に向かってお辞儀をした後に名前を名乗った。それを見た男女は嬉しそうに顔を見合わせ、「こんにちは」と言いながら、風音の頭を優しく撫でて職員と共に去っていった。彼女は、施設に知らない男女が来る理由をかなり正確に理解している。男女は新しい父親と母親になる人で、その人達に気に入られると施設を出て家族になれると思っているのだ。

 可憐で礼儀正しい風音をその夫婦は直ぐに気に入り、その日の内に引き取る意志がある事を施設の職員に申し出ていた。男は国立大学の世界史研究室の助手、女は地方公務員で二人共肉付きが良く、温和な夫婦に見えた。

 

 風音がこの夫婦に引き取られる事になった日、見送りの為に並んだ施設の子供達は大いに泣いた。彼等の瞳には風音に対する愛情と羨望、そして彼女が再び未知の世界に翻弄される事への哀れみが入り混じり彼等は自分の気持ちを持て余しているようだった。

 風音は夫婦の真ん中に立ち、二人に手を引かれながら施設を離れていく。

「風音、僕達の事は本当のお父さん、お母さんと思ってくれて良いんだよ」

 養父となる男は、そう風音に語り掛けた。そしてそっと手を重ねるかのように、養母が言葉を接ぐ。

「そうよ、風音はもう私達の子供なのよ」

 風音は小声で「うん」と言い、静かに頷いた。正確な誕生日が分からない彼女は暫定で三歳とされたが、その歳の割には極めて複雑で老成した表情を浮かべている。だが彼女は養父母の車に乗り込むまでには、上手く笑顔を作っていた。車が施設を離れた時、風音はかつて自分が置き去りにされた場所に目を遣った。そして脳裏に浮かんだ、手を振って去っていく父母の姿を消し去ろうと努める。

 

 ――私は実の父母、名前も知らない「あの人達」の顔を思い出す事が出来ない。施設を出て新しい両親を受け入れる為に、記憶に鍵を掛けたからだ。けれど、あの人達が私から離れていった時の光景ははっきりと覚えている。その時感じた寒さや風の声、金平糖の甘ささえも。私はあの瞬間世界でたった一人になった事を実感した。自分を愛し守ってくれる人が誰も居なくなり、為す術が無かった私は唯泣くしか無かった。あの時感じた絶望は、今も私の中に形を変えて残ったままだ。

 幸い養父母、今のお父さんとお母さんは私を捨てようとはしなかった。多分それが普通の親なのだろう。でも私は今日の幸せが明日にもあるという、無条件で絶対的な信頼や安心を抱いた事はあの日から一度も無い。親が子を愛し守る事、そして子はその愛に甘える事。それは普遍的な「概念」ではあるが、絶対的な現実では無い。

 

 良い子にしていれば――

 

 あの人達が帰って来なかったのは、私が良い子にしていなかったからだ。だから、新しいお父さんとお母さんの前では、誰よりも良い子になろう。幼い私はそう考えた。その考えが間違っている事に気付いたのは小学生の半ばぐらいだったけれど、生き方を変えるのには遅過ぎた。私は親の前で完璧な娘になろうとする余り、自分の弱さや本心を親だけでなく友人達にも露呈出来なくなっていたのだ。

 お父さんとお母さんは「私が元気でいてくれたらそれで良い」と言ってくれたけれど、実際には私の学校の成績を一番気にしているようだった。だから私は友達と遊びに行く振りをして図書館で勉強し、時間があれば運動をした。そのお陰で私は中学校でのテストは殆どが学年一位だった。私は友達付き合いは嫌われない最小限に留めていた。必要以上に距離を詰めず、離れもしない付き合い方は人に不快感を与えない。けれど、周りの人間全てに気を遣うのは年を経るにつれて辛くなって来た。自分の体と心が複雑さを増していくだけでも大変なのに、接する人間も変化していったからだ。

 中学を卒業し、名門と言われる私立高校に入学した頃には私の心は極度に磨耗していた。私は自分の事を頭が良いとか、人付き合いが上手だなどと思った事は無い。唯、私は誰よりも危機感を持っていただけだと思う。少しでも気を抜けば、また冷たくてザラザラしたアスファルトの上に逆戻りだと言う強迫観念が私に休ませる暇を与えなかったのだ。

 

 もう死んでしまいたい。

 

 何もかも投げ出して、何も考える必要の無い世界に行きたい。自分が無に還るのならば、私の中で渦巻く絶望も消える筈だ。何をしていてもそんな考えが脳裏に浮かぶようになった。誰かと喋っている時、勉強している時、お風呂に入っている時も。

 夜眠りに就く時には、一日無事に生きられた安堵と死の誘惑で混乱し、朝にはまた一日が始まる事に絶望してもう消えてしまいたいと願う。それでも私が生きてこられたのは、私を育ててくれた両親を悲しませたくないという想いと、無理にでも何か希望を持つようにしたからだ。希望は小さくて実現可能なものの方が良い。もう少し生きていれば向日葵が咲くのを見られるとか、冬を乗り切れば桜の舞う小道を歩けるとか。それが日々を遣り過ごして行く為の希望で、私はもう一つ大きな希望を持っていた。

 

 それは、私を私のまま受け入れてくれる人と出逢う事だった。

 

 それは極めて困難な事で、しかも矛盾を抱えている。私は誰からも愛されるような自分を作り、その精度を上げようとしている反面、それに疲れ果てている自分を誰かに理解して欲しいと考えていたのだから。

 

 風音の脳裏に、色褪せて風化しそうな高校時代の記憶が断片的に蘇る。この頃の記憶は自分が捨てられた時の絶対に消せない記憶とは違い、彼女自身が無意識に消し去ろうと努めてきた記憶である。

目次 第二章-7