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 翌日の土曜日、紡樹は恋人を連れて海辺へ行く為に朝から車を走らせていた。彼はいつも通り、自宅の最寄り駅まで電車に乗ってやってきた恋人を車に乗せる。海に行くにはそれが最も時間の効率が良いからだ。駅から海までは約三十分、何度通ったか分からない程見慣れた道である。

 紡樹の運転する車はいつもの道を何の迷いも無く走っていく。

 

 車はやがて海沿いのドライブウェイの路肩に停車した。其処から少し歩いた場所には断崖に佇む灯台が見える。その灯台は白亜の外壁と螺旋階段が特徴的で、回廊からの眺望は地元でかなり有名である。二人は手を繋ぎ灯台の麓まで歩いて行った。昨晩降った雨で真夏にしては幾分涼しく、絶え間無い潮騒と海からの風が二人を包む。

「紡樹、元気が無いね」

 背中まで届く胡桃色のきめ細かい髪を風に靡かせ、淡雪のように白く小さな顔が紡樹を覗き込む。彼女は細いと言うよりは華奢で、儚げな微笑みが見る者に慈しみを抱かせる。紡樹を見詰める彼女のダークブラウンの瞳は愛情に溢れているが、憂いを帯びた一定の揺らぎがあり、それは彼女が長年連れ添って来たものである事を伺わせる。

「ああ、そうかも知れない。風音(かざね)には隠せないな」

 風音は人の心境の変化に、紡樹が知る誰よりも敏感である。彼女は相手の表情や声のトーン、仕草で相手が自分に対して抱いている感情を直感するのだ。しかも相手の変化に自分を合わせようとするから、その気苦労は彼の理解を遥かに超えている。

「まだ落ち込んでるの?」

 血管が透けている小さな両手で、風音は紡樹の右手をそっと包み込む。紡樹は彼女から視線を逸らして、水平線を見るとも無しに見る。風音は暫く紡樹の言葉を待っていたが、やがて彼に倣い海を眺める。

 何度か強い風が頬を掠めていった後で、ようやく紡樹が口を開いた。

 

「俺の悩みを上手く言葉で表すのは難しいけど、あらゆるものは、何かに必要とされなければ意味が生じないという事だ」

 ――意味は他者に依存し、自分一人の力だけではどうにもならない。意味は関係性の中にのみ生じる。誰にも必要とされていない存在には、何の意味も無いのだ。風音は俺を必要としてくれている。其処に意味は生じているだろう。同時に俺が風音を必要とする事で、彼女にも意味がある。だが、俺にも風音にも「絶対的」な意味は存在しない。俺達の中での意味は循環しているだけだからだ。この世界に生きる者全ても同様だ。互いを必要とする事で自己にも意味を見出しているが、循環する意味は絶対的では無い。

 俺は何故生きている?

 誰かに対して慰め程度の意味を生み出す為なのか。それとも、誰かから不確かな意味を享受する為なのか。

 

「苦しいなら、もっと人に甘えてもいいのよ」

 風音は焦点の定まらない紡樹を後ろから抱き締める。彼女には紡樹の苦悩が分かっていた。殆どどんな事でも人並み以上にこなせる紡樹が、仕事を辞めてまで全力で取り組んだ事が全く評価されなかったのだ。そのダメージは本人の想像を越えて、深く心を抉っている筈だ。そして風音は最初に紡樹に会った時から、彼は挫折や屈折を殆ど知らずに生きてきたのだと気付いていた。彼女の傍らにはいつも苦悩と葛藤があり、それを持つ者と持たない者の違いを感覚的に理解していたからだ。

「俺は確かに今までで一番落ち込んでるのかも知れない。でも、傷は誰かに曝け出すだけじゃ癒えないだろ」

 ――それに、傷を舐め合っても傷口は塞がらない。傷も痛みも、乗り越えるのは自分自身の力だ。人に苦しみを打ち明けても、苦しみが減る訳では無い。それは苦しみに一人で向かい合う事を放棄した甘えだ。もし俺が風音に心中を全て吐露し、全て肯定して貰えば俺の苦しみは多少は和らぐだろう。だが一度それに慣れれば、俺は風音にもたれ掛からずには居られなくなる。そうなれば、恋愛をしているのでは無く依存しているだけになる。

「でも紡樹――」

「この話は終わり。折角海を見に来たんだ、さあ灯台に昇ろう」

 紡樹は風音の手を解き、灯台の螺旋階段に足を掛ける。風音は一瞬紡樹を引き止めようかと逡巡したが、諦めて紡樹の後に続いた。これ以上何か言っても紡樹の機嫌を損ねるだけで、自分の話を聞いてくれそうには無いと判断したからだ。それに、紡樹はまだ大丈夫だと楽観視もしていた。しかし同時に、風音には何かが少しずつ壊れていくような予感があり、もやもやとした不安が胸に広がるのを感じていた。

 

 二人は夕方まで海辺で過ごした後、風音の家に向かった。彼女はオートロック付きのワンルームマンションに一人暮らしで、二人が会う時は大抵彼女の家で夕食を作って食べる。それが大学の頃から付き合っている二人の習慣だ。風音の実家は遠方の北国で、彼女は大学に入学した時から大学の傍に住んでいる。

 紡樹と風音は今日も協力して夕食を用意した。彼等は互いに好みを熟知しているので、料理を作っても口に合わない事は無い。

 いつも通り日付が変わる頃まで二人で過ごし、紡樹は風音の部屋を後にした。風音は自室の窓から紡樹の車が見えなくなるまで手を振った。

目次 第一章-4