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 十月一日月曜日、緋月はスーツを着て家を出た。今日から仕事が始まるからである。会社には家から電車に乗って行く。通勤時間は約一時間、始業時間は九時なので大学に来る生徒とは会わずに済む。

 都会の通勤ラッシュは酷い。緋月は殺気立った乗客の群れに押し潰されそうになりながらも、会社を目指した。

 会社の従業員は緋月を含めて十名で、面接の時に営業以外の人間とは顔を合わせていた。それでもやはり緊張する。彼は自己紹介の挨拶の事で頭が一杯だ。

 社長は、俺にプライベートな事は殆ど尋ねて来なかった。今直ぐに働きたい、長く続けていきたいという熱意があるなら採用すると言ってくれた。だから、自己紹介でもプライベートについて語る必要は無いだろう。仕事に対する熱意さえ見せれば大丈夫だ。

 

 五階建ての小さなオフィスビルの三階に、緋月が勤める会社はある。緋月は八時半に到着した。彼は、社員は殆ど来ていないと予想していたが、半分以上は既に来ていた。

 朝礼で社長に紹介された後、緋月は通勤中に考えた通りに自己紹介をした。すらすらとは言えなかったが、全員に拍手されて緋月は素直に喜んだ。

 この会社では、社長と営業、プログラマーと緋月を除いては全員女性である。平均年齢は約三十歳と若く、社長は緋月が来たからまた平均年齢が下がったと笑っていた。

 今日は、参考資料と本に目を通すように言われて朝礼は解散し、緋月は既に用意してくれていたデスクへ向かう。

 良い会社だな。未経験の俺を、こんなに丁寧に扱ってくれる。今週末には、歓迎会まで開いてくれるらしい。皆、良い人な気がするし、此処でなら長く働けるだろう。唯一つ気になるのは、週明けの月曜日なのに、社員の殆どが何処か疲れた顔をしている事だ。

 昼休み、緋月は一番年が近いプログラマーの先輩と昼食を取りに外に出た。他の社員は、社内で軽く食事を済ませて仮眠を取るらしい。

 先輩は二十一歳で、緋月の二つ上だ。細身の長身で、男にしては髪が長い。だが不潔感は無く、好青年である。秋晴れの空の下、他会社の社員に混じって二人は歩く。

「迎居君、どう? この職場は」

「はい、皆さんに良くして頂けて楽しくやっていけそうです」

「そうか、それは良かった」

 彼はそう言いながら笑ったが、何処かぎこちない。

 喫茶店でランチを食べた後、先輩は煙草に火を点ける。

「迎居君、先に言っておくけど済まない」

 何故この人が俺に謝るんだ? 俺は何もされていないが。

「どうしたんですか?」

「皆、君より早く来てただろ? それについて不思議に思わなかった?」

 確かに思った。皆、仕事熱心なんだと感心したんだ。

「はい、明日から僕ももっと早く来ます」

「早く来てたんじゃ無いんだ。昨日から家に帰って無いんだよ」

「え?」

 緋月はその後言葉が出なかった。この業界に残業は付き物だと聞いていたが、徹夜は他人事だと思っていたからだ。

「今俺達が抱えてる案件は、納期が厳しくてね。今週の金曜の定時までに仕上げないといけない。本当は来週末だったんだけど、クライアントの要求で短くなった。大口の取引相手だから、断る事も出来なくてね」

 そんなに大変な状況なのに、俺の歓迎会をやると言ってるのか、この会社は。俺が出来る事は……、勉強して早く戦力になる事だ。

「早く皆さんの役に立てるよう、頑張ります!」

「ははっ、頼もしい限りだ。流石は社長が見込んだだけの事はある」

 二人が会社に戻ると、起きているのは社長だけだった。社長は緋月の肩を掌でポンッと叩き、「頼りにしてるよ」と言った。

 

 緋月が定時に帰れたのは、初日だけだった。翌日からは、先輩達に仕事を教えて貰いながら、自分のやれる事を手伝った。皆から帰れと言われるので徹夜は出来なかったが、毎日終電だった。結局歓迎会は一ヶ月遅れ、その頃には緋月は半人分ぐらいの仕事をこなせるようになっていた。歓迎会で、緋月は先輩達に「どうしてそんなに頑張れるんですか」と訊くと、「自分のやっている仕事に誇りを持っていて、やっぱり楽しいから」と聞かされた。歓迎会の後は一人前の社員と見做されたのか、緋月もたまに会社に泊まるようになる。

 

 仕事は大学とは桁違いに疲労するが、その分充足感もある。自分が社会に認められ、自分の力だけで生きていく事が出来ると言う自信も持つ事が出来た。

 そうやって、無心に働いている時は、雪那の事で苦しまずに済んだ。寧ろ、緋月は自分が仕事に馴れるにつれて、彼女の想いに報いている気さえしていた。

目次 第二章-11