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 世界を幾度かの朝と夜が通り過ぎ、硝子のように透き通った冷たい冬の光は、生命を育む暖かな春の光へとゆっくりと変わっていった。そう遠く無い未来にはこの光は更に強さを増し、大地を焦がす程の熱を帯びる事だろう。

 無機質なアスファルトの街の周囲を包み込んでいるような、色濃い緑に覆われた小高い山が生まれたての朝の光を存分に受けて輝いている。山は緑で隙間無く敷き詰められているように見えるが、よく見ると所々に淡い色のほころびがある。そのほころびに焦点を当てると、それはほころびでは無く緑の中に咲いた満開の桜の花々である事が分かる。限り無く白に近い薄桃色の無数の花弁は、降り注ぐ光に透かされ大地に万華鏡のような陰影を落としている。千変万化のその幾何学模様には何らかの意味が示唆されているのかも知れないが、刹那毎に形を変える模様からそれを読み解く事は誰にも出来ないだろう。

 

 穏やかな風が吹く度に、桜の花弁はひらひらと宙を舞い透明な風に彩りを与える。

 やがて一際強い風が起こり、それは無数の花弁を乗せて天空へと駆け上った。

 

 春の暖かさと匂いを含んだ風が、渇いた街に潤いを与え瑞々しく蘇生させていく。この春も多くの動物と植物が誕生し、新たな命の気配が街に充満している。そして、冬を乗り越え活気に溢れている生物を見ると、彼らにも命の息吹が吹き込まれたかのようだ。

 遠く運ばれた一片の花弁がある部屋の硝子窓に触れ、浮力を失って貼り付いた。窓を通した向こう側の窓辺には太陽の光を蒼く反射する石が置かれており、その向こうでは柔らかそうな白い抱き枕を抱いた一人の女性が、滑らかな髪を時折揺らしながら満ち足りているような穏やかな笑みを浮かべて眠っている。

 彼女は間も無く目覚め、次に眠る頃には枕を胸に抱く必要は無いだろう。彼女が本当に抱き締めたい人間が今日、長い旅を終えて帰って来るからだ。死への旅の途中で、生きる力を取り戻した人間が。

 

 窓から斜めに射し込む光の帯が、淡雪のように白く艶やかな彼女の顔を照らし始めた。彼女は身じろぎをし薄目を開け、ベッドサイドのテーブル上にある目覚ましを見る。セットした時間よりもまだ一時間以上早かったが、彼女はベッドから抜け出して大きく伸びをした。起きた瞬間から気分が高揚しているという稀有な幸せを彼女は噛み締める。そして窓を開け放ち、彼女は朝の新鮮な空気を思いっ切り吸った。

 

 窓に貼り付いていた花弁が再び風に乗り空へと高く舞い上がる。彼女は朝陽で淡く輝く一片を遠く見えなくなるまでずっと眺めていた。

目次 第四章-6