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 午前零時、枕の下に置かれた紡樹の腕時計のアラームが鳴った。隣室の人間を起こさず、紡樹のみが起床する為の配慮である。人間は小さな音でも、その音に反応しようと強く意識して眠ると実際に音が聴こえた際に覚醒しやすい。彼はアラームを止めてから窓を閉め、極力音を立てないように顔を洗い着替えをした。アラームが鳴ってから約十分で彼は荷物を背負って部屋を後にする。

 だが部屋を出てから数歩歩いた所で、窓辺に風音から貰ったネックレスを置き去りにしているのに気付き取りに戻った。これから死に向けて歩く以上ネックレスなど必要無いのだが、心の片隅にある「何か」が持っていくべきだと感じたからだ。それは、最後まで風音の事を想っていた証明にする為でも、安らかな死の伴侶にしようとした訳でもない。唯、「持っていくべき」だと理由の無い衝動に駆られたのだ。

 紡樹は夜気を受けて大きく身震いしてから、北東へと歩き出した。LEDライトで足元を照らしながら市街地を抜け、低木と草の合間を縫って空港の南を東西に走る道路を通過したのは午前一時半頃で、彼が一息吐いたのはそれから暫く歩いて道路が見えなくなってからだった。道路を通る数台の車のヘッドライトが見えたが、紡樹は細心の注意を払いヘッドライトが遠方に見えた段階で自分のライトを消灯して身を伏せたので他人に見付かる事は無かった。

 彼はバックパックから水のペットボトルと箱詰めのクッキーを取り出して簡単な食事を摂った。夜中とは言え、碌に食事もしていない状態で二時間も休み無く歩けば空腹になる。食糧と水はまだ残っているが、それらは砂漠をひたすら北上する為のものであり決して途中で引き返す為の保険では無い。紡樹は丸一日掛けて歩くつもりで、その為の食糧と水を計算してバックパックに入れてきたのだ。

 

 頬を刺すような一際冷たい風が吹き、それを契機に再び紡樹は歩き出した。

「もうこれで、俺は誰とも会う事は無いだろう」

 ――日の出までには空港を超える。空港から離れれば離れる程、俺は空からも視認しにくくなり、俺が砂漠を一人で北上している事に誰も気付かない。食糧と水を使い切り、灼砂の上を限界まで歩いたら幾ら後悔した所で俺はもう引き返す事は出来ない。俺は進退窮まりやがて灼砂に呑まれる。死がいつ訪れるかは分からないが、そんな状態で生き続けられる筈も無い。

 俺は誰にも看取られる事無く、砂と化していくのだ。それは緩慢な死。首を吊ったり、高所から身を投げたりする勇気は無いから、俺は自ら生きられない状況を作り出す。死に向かう過程は苦しいだろうが、死なずに生き続ける事でこの先負い続ける苦しみに比べればマシだろう。毎日自分が死ぬイメージを抱き、誰かを傷付け殺してしまうかも知れないという衝動に怯え続ける人生など、何の価値もありはしない。

 

 絶望と苦しみでしか明日を迎えられないならば、せめて死を以って己を救うのだ。

 

 紡樹は此処からは人目を気にするのを止め、たまに腕時計の針を確認しながら午前五時過ぎまで速度を上げつつ休み無く歩いた。市街地から道路を越えた所要時間から歩行速度を計算しても、空港の東を三十分前には通過した筈だ。太陽は地平線を紅に染め始めており、間も無く砂漠は業火に灼かれるだろう。太陽は光であり留まる事を知らぬ焔だ。

 日の出直前に歩みを止めて、紡樹は再び食糧と水を口にする。一息吐いて何気なく進行方向を見詰めると、地平線の一部が輝いている事に気付いた。そんな方角に海などがある筈も無く、その正体について深く考える前に輝きは失われたので何かがたまたま反射しただけだろうと決め付けて思考を止めた。

 東の地平線の一部が光に溶け、直視する事も憚られるような光が目を射る。それは古来から延々と続く世界の営みであり恵みである。紡樹は荘厳な光にそれを感じたが、彼にとってその光は自分を灼き、砂へと変える存在なのだ。彼はやがて朽ちていく己の姿を想像する。だが彼はまだ知らない。知る筈も無い。

 命の強靭さ、そして飢えと乾きによって死に近付くという苦しみの深さを。

目次 第三章-6