2

 

 三十分程車に揺られ、正午前に紡樹はホテルに到着した。チェックインして荷物を部屋に置くと、彼は近くのスーパーに飲み物と軽食を買いに出掛けた。幾ら食欲が減退しているとは言え、長時間の移動とそれに伴う緊張感が彼を空腹にさせたからだ。そして砂漠地帯に於ける乾燥は彼の想像を越えていた。呼吸をするだけで喉が渇き、何もしなくても掌や口の周りまでが瑞々しさを失っていく。彼は今まで自分がどれ程環境に恵まれた国で生きて来たのかを思い知らされた。風が吹く度に砂塵が舞い上がり、真っ直ぐに降り注ぐ陽射しが体を灼く。内陸の砂漠が厳しい環境なのは当たり前だが、暴力的な光が大地を灼き豊かな水の存在を拒むからこそ、この場所は砂漠にしかなれないのだと紡樹は実感する。

 目の前に広がる砂漠はポスターやパンフレットとは全く違う。写真ではその場所の熱や空気を捉える事は出来ず、色でさえも正確には表現出来ない。彼は砂漠を知っているつもりで本当は何も知らなかったのだ。

 紡樹はパンとサラミ、水を購入して店を出た。いずれも英語表記されている商品で、自国では見た事の無いものだった。彼はホテルの部屋でそれらを一気に頬張ると一息吐く。そして何気無く窓の外を見遣ると一本の朽ち掛けた木があった。風に吹かれても落とす葉も無いその木は如何にも寂しげで頼りない。彼はそれを虚ろな目で眺め続け、やがて疲れたように口元に笑みを浮かべた。

 

 紡樹はその木に、自分が首を吊っている光景を想像したのだ。想像というよりは、彼には実際に見えていると言っても良い。目を閉じても消えない死のイメージが。

 

 ――またか。

 俺は死を意識するようになってから、頻繁に自分が死ぬ光景を見るようになった。首を吊る自分、電車に飛び込む自分。最初はそのイメージを必死で振り払おうとしたが、それは影のように何処までも俺に纏わり付き決して離れない。だからと言ってイメージが沸く事をそのまま受け入れても状況は全く好転しないのだ。死のイメージは常に生々しく、執拗に俺を追い込んで来た。

 

 彼はイメージの自分に語り掛ける為にゆっくりと口を開いた。

「そう急かすなよ。心配しなくても、俺はもう直ぐお前と同じになるんだから」

 その声に反応したのか、木に吊り下がっている紡樹のイメージは最初から其処には何も存在していなかったかのように消えた。これまで、死のイメージが自分からの働き掛けで消えた事は無かったので紡樹は驚き、部屋を飛び出して枯れた木の麓まで走った。自分が死を乗り越えたのかも知れないと言う一縷の希望を胸に。だが彼は木の麓を凝視し蹲る。木の根の間に白骨のイメージが見えたからだ。砂や風に削られて風化している人骨。それは疑う要素など何一つ無い、完璧な死のイメージだった。彼は目元が潤むのを感じ重々しく腰を上げて天を仰ぐ。

 

 誰もがいずれ死ぬ。俺はそれを自分の意志で能動的に選択する、唯それだけの事だ。死ぬのが早まるか遅まるか、その違いでしか無いのだ。

 

 紡樹は瞳から雫が零れぬよう、僅かに顔を上げながら踵を返した。だが乾燥した風がそれを拭い去り彼は真っ直ぐ前を向いて歩き出した。最初は重々しく不安定な足取りだったが、やがて規則正しく迷いの無い歩みに変わる。

 空は手を伸ばしても触れる事すら叶わない程に遠く気高く、その透明な青さは海よりも深く冷たい。太古から続くその深淵に共鳴するかのように、紡樹の胸元でペンダントが蒼い光を放っている。

 

 夜になると、気温が急激に下がった。真夏とは思えない程の冷え込み方で、紡樹は厚着をした上に毛布に包まった。日中は自国の夏よりも遥かに気温が高いのにも関わらず、夜は秋の終わりのような寒さだった。

 彼は毛布の中で、具体的な死の方法を検討する。出来れば誰にも見付からず死に、その後誰かに掛ける事になる迷惑も最小限にしたい。彼はそれを念頭に考えを纏めていたが、まだ何処かで本当に自分が死ぬという事を実感出来てはいなかった。一週間という猶予が彼の感覚を鈍らせていたのは確かだが、それよりも彼は無意識下で自分はどうにかして生きていけるかも知れないという期待を捨て切れていなかったからだ。

目次 第三章-3