4

 

 遠き日の記憶の断片。

 それは目の前の現実よりも色鮮やかな場合もあれば、輪郭すらも曖昧なものもある。風音が呼び起こした記憶は前者の方だった。

 

 大学近くの駅の薄汚れた女子トイレの個室で風音は蹲っている。落書きのされた扉や、紙の散乱した床が目の前にある。彼女は新入生歓迎コンパの後、電車で帰宅する力も無くトイレに駆け込んだのだ。殆ど酒を飲んだ事が無いにも関わらず勧められた酒を全て飲んだ彼女は、真っ直ぐ歩く事は愚か意識を保つ事すら困難だった。幾度も吐いてから水を飲み、荒波のように揺れる視界が正常に戻るまで彼女は二時間以上その場を動けなかった。元々色白な顔から生気が失われ目には光が無い。だが口元には微かに満足そうな笑みを浮かべ、心中で呟く。

「今日のコンパは、笑顔も会話も完璧だったから誰かに嫌われたりはしない筈。女の先輩は味方に付けたし、男の先輩には好意的な視線を向けられていたから問題無しね」

 彼女は先刻の飲み会を思い出す。女の先輩には惜しみない尊敬を送り、男に対しては媚を含まない健康的な笑みを浮かべていた。風音は基本的に相手の話を聞き、自分は必要最小限しか喋らないようにしている。言葉を発すれば発する程、反感を持たれる可能性が増す事を知っているからだ。極端に言うと、価値観が全く逆の人間二人が目の前に座っていれば、自分が何かを話す度に二人の内のどちらかが不快な気持ちに陥る事になる。

 

 風音はトイレを出て、ゆっくりとホームへ昇る階段に向かって歩き出した。よろけそうになるのを歯を食い縛って堪え、じっと睨む様に前を見据えている。彼女は人に自分の弱さを曝け出そうとはしない。心身共に疲労していたとしても、誰かの力を借りようとは思わないのだ。彼女にとって人の手を借りる事とは相手に迷惑を掛ける事と同義であり、迷惑を掛けられた人間はいずれ自分を嫌いになると彼女は思い込んでいる。自分を嫌いな人間は必然的に自分の元を離れる。それが続けば彼女は一人ぼっちになる。

 

 風音は一人になるのを恐れる余り、一人で全ての苦しみを抱え込んでいるのだ。

 

 階段を昇り切れば、後はそれほど肉体に負荷が掛からない。そんな事を考えていると、風音は後ろから声を掛けられた。

「氷上さんだよね?」

 歩く事だけに集中していた彼女には、その声は遥か遠くから聴こえたような気がしたが、実際には直ぐ後ろからだった。彼女は振り向き声の主を確認する。それがサークルの先輩である紡樹だと理解した瞬間、風音は微笑みを作った。微笑みが浮かんだのでも、浮かべたのでもなく彼女は無意識に「それ」を作ったのだ。

「はい、氷上 風音です。月城 紡樹さんですよね。こんな遅くまで飲んでいたんですか?」

 彼女は自分の素の表情を見られたと思い、微笑みを浮かべながらも激しく動揺する。彼女は何とか言葉は返せたが、さっきの飲み会で皆に見せた元気が作り物だと悟られたかも知れないと思い込んだ。また、紡樹は彼女にとって、サークルに興味を持つ切っ掛けをくれた人であり、理由は分からないが何故か興味を惹く特別な人だと思っていたので、自分のこんな姿を見られたくは無かった。

 風音は微笑みを浮かべたままだったが、背中に冷たい汗がじわじわと浮かぶのを感じていた。それと同時に、どんな質問が来てもスムーズに答えられるように頭を全速力で回転させていた。

「そんなに、無理して皆に気を遣う必要は無いって。在りのままの自分を受け入れてくれないような相手なら、仲良くなる必要なんて無いだろ? 自然体が一番!」

 紡樹のその言葉で「今までの風音」の思考は停止する。その代わりに今まで止まっていた「本来の風音」の時と心が猛烈な速度で動き始めた。入り混じった感情が溢れ出し、風音の目から雫が零れ始める。

 

 ――何故私が「有りのまま」じゃ無いって分かるの? 今まで誰も「私」には気付かなかったのに。私は「私」を抑え込んで、人から好かれる私を造り上げた。年が経つにつれて私はどんどん人に好かれ、「私」は益々孤立していった。

 それなのに貴方は、私という入れ物の中にある「私」に話し掛けてくれている。それがどれ程凄い事か分かりますか?

 

 風音はその時、生まれて初めて心の芯が激しく燃え上がるような感覚に陥った。その感覚は胸を締め付け全身を巡る。彼女は理屈では無く、目の前に居る人こそが自分に必要なのだと確信した。未体験の情動にも関わらず、風音はそれこそが人を愛する事なのだと理解する。

 

 風音は、初めて見付けた自分の理解者の気を惹く為に様々な策を講じた。遠巻きに視線を送ったり、偶然を装って話し掛けたりもした。相手の負担にならないよう気を付けながらメールを頻繁に送り、時には電話を掛ける事もあった。

 紡樹は風音の好意をしっかりと受け止め、彼もまた彼女に対して好意を抱いていたが彼が彼女に告白する事は無かった。

 風音の溢れる感情はやがて心の器から溢れ出し、彼女は紡樹に自分の想いを伝えた。誰にも我儘を通す事の無かった彼女にとって、それは初めて自発的に何かを得たいという強い衝動だった。その切実な想いを紡樹は穏やかに受け止め、二人は寄り添って歩き出す事を決めた。

 

 紡樹の前では、沈黙を明るい言葉で埋め尽くす必要も、相手に不快感を与えない微笑を作る必要も無かった。塞ぎ込んで泣いている時や何も喋りたく無い時に、紡樹は黙って傍にいてくれる。心地良い沈黙というものが世界に存在する事を、風音は初めて知った。

 彼女にとって紡樹は眩いばかりの光であり、そのお陰で自分の闇の底に溜まった真っ黒に汚れた泥のようなものを少しずつ浄化する事が出来た。

 

 ――私は一方的に紡樹に依存していると思っていた。でも実際にはそうじゃ無い。紡樹は私を照らす事で、自分の中にある闇に向かい合わずに済んでいたの。強い光の後ろには何も見えない程の闇があるという当たり前の事実に、紡樹と生きる事に浮かれていた私は気付かなかった。

 

 私が紡樹の光になる為には、自分の光を遮る歪みを自分で拭い去るしか無い。

 私を苛む原始の記憶へ――

目次 第二章-5