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 風音が空港から帰宅した頃には雨は完全に止んでいた。彼女はベッドに腰掛けて淹れたてのミルクティーを啜りながら、自室の窓のレースのカーテン越しに見える街灯の明かりに目を細めている。やがて、彼女の思考は窓を通り抜け時を遡り始めた。

 

 あの夜の月の美しさを風音は覚えている。

 風音は、透き通るような清浄な光が窓から射し込んでいたのをはっきりと覚えている。

 あの日彼女は久し振りに紡樹と一緒に夜を過ごした。二人で夕食を作り、一緒に風呂にも入った。紡樹はかなりやつれていたが、彼女と一緒に居る間に少しずつ元気を取り戻したような気がしていた。実際には彼の精神は破綻寸前だったが、彼女は二人で眠るまでそう信じて疑わなかった。紡樹は微笑み、風音は彼の胸に頭を埋めてその温もりを感じていたからだ。

 彼女は、紡樹が腕枕を止めた時には既に覚醒していた。彼の息遣いが異常な事にも気付いていたが、彼女は薄目を開けるだけに留めた。直感的にその方が良いと感じたからだ。その直ぐ後に紡樹の両手が自分の首に回され、彼女ははっきりと目を開けた。だが紡樹はその事にさえ気付いておらず、自分の中の何かと葛藤しているようだった。

 風音は紡樹になら殺されても良いと思った。だから彼女は彼の手を振り解こうともせず、暴れようともしなかった。人は絶望を感じた時に最初は自分を責めて、破壊衝動は自身に向かう。けれどその状態が長く続き、精神がその負荷に耐えられなくなるとその衝動は自分以外にも向く。その衝動は自分が愛情を抱いている相手程強い。

 

 ――貴方は私を傷付けたかったんじゃ無い。余りにも心が苦しくて、自分一人じゃどうしようも無かったから苦しみの代償を私に求めようとしただけなの。

 

 紡樹の手に力が込められる。その間風音はじっと紡樹を見詰めていた。自分に一時でも生きる為の光を与えてくれた最愛の人を一秒でも長く感じる為に。息が出来なくなる程に締め付けられれば風音は暴れていただろうが、その前に紡樹は自らの狂気を抑え込む事に辛うじて成功した。そして、彼は顔を歪めて風音の上に覆い被さった。

 紡樹と共に風音も泣いた。彼女は、こんな状態になるまで自分に頼ってくれなかった紡樹に対して、寂しさを覚えると同時に自分自身が許せなかったからだ。

 

 貴方は私に手を掛けようとする前に、きっと自分が死ぬ事を考えたと思う。ううん、今もその事で頭が一杯だと思う。私には分かる。

 私は今までに、何度も何度も数え切れない程、死ぬ事を考え続けてきたから。

 生まれて物心が付く前から、私は存在を否定されていたから。

 

 その事を彼女は紡樹に話した事が無い。それは紡樹のように真っ直ぐに光の中を歩いて来た人には理解出来る筈も無く、そんな重荷を背負わせて嫌われたくも無かったからだ。

 だが今彼女は思う、話すべきだったのだと。そうすれば少なくとも、紡樹が苛まれている絶望や苦しみは決して紡樹だけのものでは無い事を知らせる事が出来たのだから。

 

 あの夜の月の美しさを風音は忘れない。そして風の冷たさも。

 公園のベンチで座っていた紡樹にもう近付くなと言われた後、風音はどうやって家に帰ったのかはっきりとは覚えていない。唯、月と無数の星々を見てこう思った。

 

 私も紡樹もこの広い宇宙の一部なんだ。瞬くように生きて、誰に気付かれる事も無く死んでいく。でも生や死は始まりでも終わりでも無くて、無限に続く時と言う流れの一部に過ぎない。だからどんな形であれ、愛する人と同じ時に同じ場所で出逢えた事には感謝しよう。

 貴方は言った。「あらゆるものは、誰かに必要とされてこそ意味があるんだ」って。私もその言葉は正しいと思う。私はずっと紡樹を必要として来たし、紡樹も私を必要としてくれていると思ってた。それでもそんな疑問が沸くのは、きっと自分自身に絶対的な意味を見出したいから。

 私が冬の夜空を見てその言葉を思い出したのは、はっきりと答を「感じた」から。

 頭で考えても決して分からない答がある。その答さえ見付ければ、紡樹は絶望の淵から戻って来る事が出来るわ。

 

 風音は部屋の電気を消し、ベッドに入った。部屋に暖房を掛けているとは言え、誰も入っていない布団に入ると身震いする程に寒い。彼女はそんな時、いつも紡樹の温かさを思い出していた。自分よりも体温が高く、優しく包んでくれる人の温かみを。

目次 第二章-3