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 二月中旬、緋月は志望している私立の美術大学の受験を終えて帰って来た。受験日は緋月の方が先だった。先だと言っても、明日には雪那も受験会場に向かい、明後日が試験だ。緋月は家に荷物を投げ出し、夕食も取らずに家を出た。雪那に、一刻も早く報告をしたかったからだ。

 二人の家の間にある街灯の下で緋月が待っていると、雪那が駆け寄ってくる。

「お疲れ様! どうだった?」

「手応えありだったよ! 雪那先生のお陰」

 本当に。デッサンと油絵は自信があったけど、国語と英語が出来たのは雪那が教えてくれたからだ。

「ふふ、そうかも」

 雪那は笑う。まるで自分の事のように嬉しそうだ。

「取り敢えず、此処で立ち話してたら凍死する。俺の家に来いよ」

 俺達が立っている場所は深雪の上だ。風は吹いていないが、寒過ぎて頬と耳が痛い。それに、家に来いと言っても、明日雪那は会場に向けて出発する。長く引き止める気は無い。きっと雪那は、うんと言ってくれるだろう。だが、予想外に雪那は首を振った。

「此処でいいよ」

 何処か、有無を言わせない笑み。白い顔が、寒さで余計に白くなっている。今にも、透明になってしまうのでは無いかと思う程に。それは何処か儚げで、美しかった。

 緋月は雪那を胸に抱き寄せる。唐突に襲って来た、雪那への想い、感謝が全身を稲妻のように駆け巡ったからだ。

「雪那、ありがとう。雪那も絶対受かれよ。四月からは二人で新生活だ!」

 大学は違うけど、そんなに離れていない。だから住む場所は近くにするんだ。そうすれば、大学に行ってても毎日雪那に会える。雪那の笑顔が見られる。チープな表現かも知れないが、薔薇色の大学生活だ。

「気が早いよ! まだ緋月は受かった訳じゃ無いのにー」

 雪那はそう言いながらも、俺との大学生活を思い描いているようだった。

「まあな。でも十中八九、合格してると思う。雪那、これからも宜しくな!」

 気の所為か? 一瞬、俺を見上げる雪那の目に「寂しさ」が宿った気がする。

「緋月、いつもありがとね」

 間違いじゃ無い。この表情は、雪那が寂しい時に見せる表情だ。二人で会って、俺が帰る時にこんな顔をする。どうしてだ? 明後日の入試が不安なのか。

「礼を言うのは俺の方だって。雪那、さては入試で緊張してるんだろ?」

 雪那は震えている。緋月の胸の中で小刻みに。緋月は、「大丈夫」と言いながら彼女の髪をそっと撫でた。

「ありがとう、これで頑張れそうな気がする」

 やはり不安だったんだな。幾ら雪那が優秀だと言えども、入試は一回限りだ。そろそろ、雪那は家に帰さないと。風邪でも引いたら大変だ。

 緋月は雪那を離そうとした。だが、雪那は彼の腰に手を回し離れようとしない。

「緋月、ギュッてして」

 とろんとした、甘えた目。そして、切実さが滲んだ声……。俺は、雪那が痛がらないギリギリの力でもう一度抱き締めた。

「お願いがあるの」

「ん?」

 キスしてとでも言うのか? 誰も見ていないから構わないけど。

「私の絵、絶対描いてね。向日葵畑に居る、私の絵」

 何故今それを? 何度も言った筈だ。俺が、自分で満足出来る絵が描けるようになったらと。雪那もそれを解ってる。だが、この雪那の顔は真剣そのものだ。

「ああ、約束する」

 緋月が力強くそう言うと、雪那は緋月に口付けをした。唯でさえ冷え易い体質と、気温の低さが相俟(あいま)って、彼女の唇は雪のように冷たかった。

 二人の舌が絡まり合う。その熱は二人の全身を巡り、体を火照らせた。それは、この世で唯一つの温かさのようだった。

 この日、雪那は初めて自分から唇を離した。

「緋月、大好き。またね……」

 雪那はそう言って、緋月に背を向ける。いつもなら、緋月も同時に背を向けるが今日はずっと雪那の背中を見守る事にした。

 雪那はゆっくりと雪を踏み締めて歩いていく。緋月はその背中に向けて叫ぶ。

「俺も雪那が大好きだ! 試験が終わって、こっちに戻って来たら連絡くれよ。駅まで迎えに行く」

 雪那は振り返らずに頷く。遠く離れた彼女の肩が小さく震えているのに、緋月は気付く筈も無かった。

 街灯の光を受けて、真っ白な粉雪が緋月に降り注ぐ。雪那が家の前に着いたのを確認して、緋月は自分の家へと歩き始めた。

 雪那は家のドアの前から、離れていく緋月を見詰めていた。いつまでも、いつまでも。

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