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 学校が終わり、緋月と雪那はバス停の近くの喫茶店に入った。雪那が「話したい事がある」と誘ったからだ。緋月も雪那に話があるので丁度良かった。

 この喫茶店は老舗だが小綺麗で、流れている曲も流行のものばかりだ。飲食物は安価で、学生は学割料金で更に安い。正に、学生の為に作られたような店だ。棚には漫画や小説が置かれており、長時間居座る学生も少なくない。テーブルは五卓でそれぞれに四脚の椅子、カウンターには十脚の椅子が並ぶ。今日は客が比較的少なく、テーブルが一卓とカウンターが三席しか埋まっていなかった。

 緋月と雪那は、一番奥のテーブルに座った。緋月はホットコーヒー、雪那はホットミルクティーを頼む。

「緋月、今日の事だけど」

 早速来たか。俺もその話をするつもりだったし都合が良い。

「ああ」

「もう友達には頼んだわ。私が泊まりに行っている事にしておいてって」

 な……。其処まで話が進んでいるのか。これじゃあ、泊まりに来るのが現実的に不可能だとは言えない。やはり昼休みに無理にでも呼び出した方が良かった。

「でもな……、やっぱり悪いと思うんだ。おじさんとおばさんに」

「緋月と一緒に居る事が悪い事なの? 何も疚(やま)しい事なんか無いじゃない」

 真剣で澄んだ瞳が俺を見詰める。そんな目で見るなよ。まるで俺が、疚しい事が起こりそうだから止めようとしているみたいじゃ無いか。

「まぁな」

「じゃあ、行っていいでしょ?」

 朝もOKを出してしまったし、今日は仕方無いか。

「ああ、でも高校の内は、今回限りだぞ」

「うんっ、解ってる。ありがと、緋月!」

 薄く瞳を閉じて、白い歯を見せての満面の笑み。俺は、これから先もこんな顔の雪那をずっと見ていたい。

 雪那は、この後の事を説明した。まず、二人は別々のバスで帰る。先に緋月が家に帰り、雪那は後から遠回りして緋月の家に行く。遠回りの道は、雪那の家から死角になる道である。雪那は自宅には帰らない。学校で、友達に勉強を教えてくれと頼まれて急に泊まりに行く事になったと家に伝えているからだ。それに、家に帰ると母に何か違和感を察知されるかも知れない。緋月は話を理解し、店を出て一人バス停に向かう。

 バス停に立ち、緋月はどんよりとした薄紅色の空を見上げて一言呟いた。

「女は恐ろしいな」

 緋月が自宅に戻って大体三十分後、雪那はそっとドアを開けて家に入って来た。時刻は、午後六時を少し回った所だ。

「お邪魔します」

「どうぞ、上がってくれ」

 何度も訪れた家なのに、雪那は僅かに緊張している。緋月も、長年住み慣れた家なのに今日は知らない家に居るような気分だった。雪那はドアの鍵を閉める。今日はもう、この家には誰も来ない。それを自分自身に納得させる為に。

 雪那は学校の鞄を、リビングにある二人掛けのソファに置きキッチンへと向かう。手にはスーパーの袋を持っていた。

「何か買って来てくれたのか?」

「うん、緋月の家にはあんまり食材無いかなと思って」

「失礼な」

「でも、実際そうでしょ?」

「まあな」

 俺は余り料理に拘(こだわ)らない。健康を損なう事無く、腹が膨れればそれでいいからだ。

 雪那が制服の上にエプロンを付けた。私服の上に付けたのは見た事があるが、制服の上に付けたのは初めて見る。

「手伝おうか?」

「ううん、緋月はテレビでも見て座ってて。私一人で美味しい料理を作るわ」

 雪那はそう言うと、制服の袖を捲くった。細く白い腕が露(あらわ)になり、緋月は思わず目を逸らす。それから、彼はソファに座りテレビを付けた。

 テレビの映像や音声が、ちっとも頭に入って来ない。何で俺はこんなに緊張してるんだ?雪那と二人きりになった事なんて、今までに数え切れない程あるだろ。

 雪那は、母に教わったレシピを思い出しながら懸命に料理を作っている。料理に熱中しているので、緊張感は完全に消え去っていた。

 雪那が来て、時計の長針がもう直ぐ一周する。緋月は、空腹でソファの前のテーブルに上半身を預けていた。其処に背後から雪那が歩み寄り、背中を突っ突く。

「出来たよ! 運ぶの手伝って」

「おお! もう限界に近かったよ」

 二人はキッチンテーブルに料理を並べる。雪那が作ったのは、ほうれん草のクリームオムライスと、オニオングラタンスープ。緋月が絶対に作りそうに無い、手の込んだ料理だ。

「凄いな、よくこんな料理を作れるもんだ」

「お母さんの料理を手伝ったら、これぐらい楽勝よ」

 二人にギクシャクした様子は無い。いつも通りの緋月と雪那だ。

「頂きます!」

「召し上がれ。スープはお代わり出来るからね」

 緋月はオムライスを一口頬張り、飲み込んだ後にスープを口にする。

「どう、美味しい?」

 緋月は子供のように純粋な笑みを浮かべ何度も頷く。

「美味い! 雪那、料理上手くなったなぁ」

「良かったぁ! どんどん食べてね」

 緋月は、目まぐるしくスプーンを口に運ぶ。その様子を見て雪那は微笑んだ。

 緋月は瞬く間に食べ終えた。勿論、スープもお代わりして。まだ雪那はオムライスが半分ぐらい残っている。

「ご馳走様でした!」

「お粗末様、ほら口にクリームが残ってるよ」

 雪那がテーブルの上のティッシュを一枚取り、緋月の口を拭く。緋月は照れくさいのか、頭を掻く。雪那は口を拭き終えると、そっと彼の唇にキスをした。

「俺、風呂を沸かしてくる」

 慌てる緋月を見て雪那は笑う。緋月は小走りに風呂場へ向かった。

 風呂掃除を終えた緋月が戻って来る頃には、雪那も完食していた。雪那は二人分の食器を流しに運ぶ。洗い始めようとすると、緋月が制止した。

「洗い物ぐらい俺がやるから、ソファにでも座ってろって」

 さっきから雪那に主導権を握られっぱなしだ。そろそろ挽回しなければ。

「うん、お願いね」

「任せろ、って言う程大した事じゃ無いけど」

 二人分の食器は少ない。フライパンや鍋を含めても、洗うのにさほど時間は掛からない。だが、その短時間で緋月は自分のペースを取り戻した。彼は毎日食器を洗っている。毎日繰り返している事を行なうと、自然と雑念が消えるものである。

 風呂が沸くのには、三十分程度掛かる。それまで、二人はソファに腰掛け、バラエティ番組を見て笑い合った。

 番組の途中、丁度CMに移り変わる一瞬の静寂の中で、風呂場からアラームが聞こえた。二人はビクッと背筋を伸ばし、目を見合わせる。この一瞬は二人に、この家には他に誰も居ない事、雪那が今日泊まっていく事を思い出させるのに十分な時間だった。

「俺、風呂に入るよ。雪那、着替えなんてある訳無いよな?」

「うん。出来れば、玲花ちゃんのパジャマとかあれば有り難いんだけど」

「姉ちゃんのパジャマか……。捜せばあると思うけど、何処にあるか解らないな。俺ので良ければ貸すけど」

 雪那は俺より大分小柄だが、着れない事は無いだろう。本当は姉ちゃんのパジャマは、姉ちゃんの部屋にあるけど、勝手に触ったら今度こっちに帰って来た時に絶対怒られる。

「じゃあ緋月のパジャマ貸して」

「OK」

 俺は二階にある自室から、二人分のパジャマと自分の下着を持って来て、一着のパジャマを雪那に渡した。幾ら恋人とは言え、雪那の下着の替えなど俺が持っている筈も無い。ましてや、雪那が替えを持っているかどうかなど絶対に訊けない。そんな事を考えていると、雪那を直視出来なくなり、俺は逃げるように風呂場に駆け込んだ。

 緋月は浴槽に浸かり、白く無機質な天井を眺める。鼓動が早まっているのは、体が温まったからでは無いと緋月は気付く。

「雪那が風呂に入った後、俺はどうすればいい?」

 雪那は何を望んでいる? 泊まりに来たと言う事は、「覚悟」があると言う事か。もしそうなら、俺はどうするのが最善なのだろう。唯一つ言えるのは、俺は雪那を泣かせる事だけはしたく無い。昔からそうだったように、これからも。

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