第十八節 漂揺

 朝食が終わり、出発の準備が整った三人は地図を広げた。懐中時計は午前十時を指し示している。広げた地図に、壊れた窓から日の光が射す。

「次は何処へ向かうんだ?」

 ルナが、現在地であるルトネックを注視しながらフィーネに尋ねる。

「それが……」

 フィーネは視線を落として口籠る。その顔に宿っているのは不安。

「どうしたのー?」

「この村にはもう誰も居ないので、連絡船に乗せて貰え無いんです……」

 連絡船が無い……、か。船が無ければ、ルトネックから出る事は出来ない。此処は孤島だ。だが心配は要らない。連絡船は無くても、漁船は数隻見掛けた。

 現状、選べる道は二つ。レニーに戻るか、南西に五百kmの「リウォル」に向かうかだ。

「ならば、漁船で『リウォルの街』へ進もう」

「はい! 『流石』ルナさんですね」

 流石? 此処でその言葉が出てくるのは可笑しい気がするが、まぁいいだろう。

「行き先は『リウォルの街』で決定だけどー、この『死者の口』って何?」

 リバレスが、地図上で此処から東に百km程の地点を指差す。

「其処は……、魔物が現れる場所として有名なんです。この世界に居る魔物は、全て其処から来たとも言われています」

 身震いするフィーネの肩を、私は「ポンッ」と叩く。

「いずれは、私が其処へ行く事になるかも知れないな」

「……はい。私は、何処へでもお供します!」

 彼女は強く頷いた。リバレスも、真剣な面持ちで地図の上を飛んでいる。

 船着場には三隻の漁船が係留されている。三隻共木造の帆船で、大きさが違う。

「さぁ、行きましょう!」

 フィーネは迷わず、一番大きな船に乗り込んだ。全長は二十m程で、帆の白さが眩しい。吹き寄せる風と潮騒(しおさい)が、新たな旅立ちを予感させる。

「待てよ、あんまり急ぐと危ないぞ!」

 私は、そう声を掛けながらフィーネに続く。係留ロープは岸壁から外しておいた。

「大丈夫ですよっ!」

「まだまだ、子供ねー」

 笑顔で駆けるフィーネを見て、リバレスが笑う。

「お前も子供だろ? 一緒に飛び回って来いよ」

 私はリバレスの頭をポンポンと叩いた。

「ムカッ! でも、たまには飛び回るのもいいかもねー」

 冬にしては暖かな陽射しの中で、フィーネと共にはしゃぐリバレス。平和な光景だ。

「さて、フィーネ。村も見えなくなって来たし、そろそろ操船を頼む」

 私は、走り疲れているフィーネの肩を叩いた。

「えっ! ルナさんが操船してくれるんじゃないんですか?」

 何を言うんだ。人間界での雑務は君に任せている筈だ。

「天使だった私が、船を操れる筈が無いだろ?」

「えーっ! それじゃあ、リバレスさんは?」

「こんなに小っちゃなわたしが、操船なんて出来る訳無いでしょー!」

「でも……、変化したら?」

 フィーネの顔が青褪めている。まさか、本当に?

「変化した所で、操船技術は無いから無理。フィーネ、冗談は止めて早く操船してよねー」

「本気です! 単なる村娘が、操船なんて無理ですよぉ!」

 身を乗り出し、私とリバレスに訴え掛けて来る。これは本気だ。

「どーするのよー? 陸はもうあんなに遠いわよー!」

「漂流決定だな」

 私は甲板の手摺に凭(もた)れ、空を眺めて呟いた。

「何でそんなに冷静なのよー?」

 何とかなるさ。フィーネが居れば。ルトネックの危機に比べれば、漂流など些細な事だ。

「船は南西に向かっているようだし、食糧も一週間分位はあるからな」

「そうですね。ルナさんが居れば大丈夫な気がします」

 リバレスが、忙しなく私とフィーネの間を飛び交う。怒っているな。

「二人とも呑気(のんき)過ぎよー! わたしはESGがあるから、一週間以上の漂流でも大丈夫だけど、ルナは堕天で弱体化してるのよ。フィーネは普通の人間だし! ……知らないわよ、どうなっても」

 このまま船が南西に進めば、明後日にはリウォルに着く。だが、延着する可能性も考慮すべきだ。船はゆっくりと進む。私達の思いに縛られる事も無く、唯、風を受けて。

 見渡す限りが紅く染まっている。遮るものは何も無い。この星を包む夕焼けの中心に立っているような感覚。甲板でたった三人、並んで見るこの光景は格別だった。

「それじゃあ、そろそろ夕食を作りますね!」

「否、今日は要らないよ」

「え? でも、お腹が空いたでしょう。私の料理が嫌になったんですか?」

「そんな事は無い。君の料理は美味しいよ。だが私は、天使だから余り空腹になったりしない。明日以降、私がもし空腹になったらちゃんと言うから、気を遣わないでくれ」

 空腹にならない筈が無い。だが、私はそう言うしか無かった。

「解りました……。せっかくルナさんと仲良くなれたと思ってたのにな……。それじゃあ、私一人で食事を取らせて貰いますね」

 フィーネは俯きながら、トボトボと一人、船室へと帰って行く。

「済まない……」

「どうしてあんな嘘を吐いたのよー? ESGが無いと、人間と同じようにお腹が空く癖にー!」

 リバレスが、全速力で私の胸に体当たりして来る。

「痛い痛い……! 私とフィーネでは丈夫さが違うだろ? この船には、二人で一週間分の食糧しか無いんだ。私が食べなければ、食糧は二週間以上もつ。それぐらいなら私は耐えられる筈だ。それに、ああでも言わないとフィーネは気にして食事を取らないだろ?」

「もー! 相変わらず甘いんだから。それとも、相手がフィーネだから?」

「違うって! 私は堕天使、フィーネは人間なんだから当然だろ?」

「へーえ。ちょっと前までは、『下等な人間と暮らすのは苦痛だ』って言ってた癖にー」

 挑発的な笑みを浮かべるリバレス。最近、よく突っ掛かって来るな。

「こら、『蝶々』! いい加減にしろよ」

「ムカムカッ! わたしは『蝶』じゃなーい!」

 リバレスは蝶扱いされると怒る。何度も何度も体当たりされた。

 フィーネとリバレスは眠りに落ちた。二人共、「スヤスヤ」と寝息を立てている。私は、そっとベッドを抜け出した。

 星屑にかかる薄いベールのような雲。ベールの切れ間から覗く下弦の月。淡い光の下、私は甲板の椅子に座り世界地図を開いた。地図にはフィーネが、これまでの旅路を赤い線でマークしてある。

「明日で一週間か……」

 ミルドの丘から始まったこの旅を思い返す。……とても充実した日々。天界に居た頃には想像も出来ない程、起伏に富んだ日々。この一週間は、天界で過ごす百年、否、千年以上の価値がある。

 フィーネの存在が、私の中で日毎に大きくなっている。彼女を目で追い、彼女の事を考える頻度が増した。不思議な気持ちだ……

 二百年。この二百年は「刑罰」では無く、掛け替えの無い「思い出と経験」になるだろう。二百年後、「贖罪(しょくざい)の塔」を上り天界に帰る頃に、私は「誰を想い」、「何を決断」しているのだろうか。今は解らない。だから、毎日を懸命に生きるしか無い。

 私は思索を巡らせながら、乾パンを一枚齧る。私個人の荷物に入っている、少ない食糧の一部だ。食糧は一日分にも満たない。空腹だが、我慢して寝よう。

 穏やかな海は揺り籠(かご)のようで、船は揺ら揺らと心地良く眠る。

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第十九節