第十五節 恋闇

 ルナとリバレスは、ベッドに「ドサッ」と倒れ込んだ。二人は極度の疲労で、身動きすらも億劫(おっくう)だった。

 そのまま一時間ばかりが過ぎた。時計の針は、もう直ぐ午後十一時を指そうとしている。

「リバレス、色々済まなかったな」

 ルナは俯(うつぶ)せのまま、リバレスに声を掛けた。

「いいのよー。ルナが今もこうして生きていてくれるだけで、私は満足だから」

「ありがとう」

「どういたしましてー。それはそうと……」

 身を起こし、彼女の方を向く。すると、其処にはいつになく真剣な顔があった。冗談は通じそうに無い。

「さっきの事だろ?」

 彼女は、小さい首を「コクリ」と縦に振る。

「……さっきの『力』。あれは正直、自分でも解らない。だが、違和感は覚えなかった。あれが、本来の自分じゃないかと思えるぐらいに」

「ルナ、怖かった。髪は銀色になってるし、目は赤いし……」

「外見まで変わっていたのか……。ハーツへの怒りと絶望で、体の内側から燃えるような感覚に襲われたが」

 リバレスは俯(うつむ)いていたが、ピョンッと私の肩に飛び乗る。

「今のルナはいつもと変わらない。これからも、ルナはルナのままでいてねー」

「ああ」

 私が微笑むと、彼女は私の周りを飛び回った。あれだけの事があったのに元気だな。

「それにしても良かったわねー、ルナの夢が叶って! 明日から二人共人間界なのが、玉に瑕(きず)だけど」

「お前も来てくれるのか?」

「もー、当たり前じゃない。ルナ一人じゃ、危なっかしいからねー」

 私は肩に止まった彼女の頭を撫でて、頷いた。

「頼りにしてるよ。『下等な人間』と、二百年も過ごすのは苦痛だからな」

 かつての神が戯れで創った、人間。獄界との関係に亀裂を奔(はし)らせた存在。下等な知能を持ち、繁殖力だけが優れた生命。何故神は人間を創ったのか。獄界との争いの火種になる事を、聡明なる神が考え付かなかったとは思えない。何か、確固たる理由がある筈だ。無論それを私が考えた所で、答えは見えないのだが。

「わたしはルナと一緒なら、二百年ぐらい楽勝よー。でも、よく考えれば、わたしってまだ二百二十四歳だから、帰って来る頃には倍の歳? ……ガーン!」

 リバレスは、「ガックリ」と肩を落とした。笑みを湛(たた)えながら。その様子が滑稽(こっけい)で、私は思わず笑いを零した。

「あ、ルナが笑ったー! 思いっ切り笑うのを見たのは、久しぶりよー。あははは」

 そう言えばそうだな。こんなにも心が晴れ渡る事が、長らく無かったから。

「ははは……。改めて、明日からは『人間界』暮らしだけど、宜しく頼む」

「任せなさーい!」

 この調子だと、人間界でも楽しくやって行けそうだ。お前が居てくれて、良かった。

 深夜二時。二人が堕天の準備を済ませ、ようやく眠りに就いた頃、隣室で微かにピアノの音が響いた。内に激情が秘められた、哀しく、切ない旋律。その音が鳴り止んだ後、静かに隣室の扉が開いた。其処から一人の天使が現れ、ルナの部屋の前に立つ。

「今晩は……」

 弱々しく響く声。だが、ルナはその声で目を覚ました。ジュディアだ。ルナは、熟睡しているリバレスを起こさぬよう、足音を忍ばせ、ゆっくりとドアを開いて外へ出る。

「どうしたんだ、こんな夜遅くに?」

「本当にごめんなさい、全部私の所為なの! 私が余計な事をしなければ」

 目を腫らした彼女が、廊下に響き渡る程の声で叫ぶ。咄嗟(とっさ)に、ルナは彼女の口を塞いだ。

「もう少し小さな声で話せよ。みんな寝てるんだ」

「ごめんなさい」

 涙を落として俯くジュディア。私は、彼女の肩を「ポンッ」と叩く。

「何も気にする必要は無い。結果として、天界は私の望むように変わるんだ。二百年の堕天など、些細な事だ」

 私の言葉で、彼女は顔を上げ微笑む。妖艶な表情……

「ルナッ」

 彼女は私に抱き付き、胸に顔を埋めた。

「ルナ、私は貴方を愛してる。初めて会った時から……。そして、これからも」

 解っていた。だが、私は動転し言葉を返せない。頬を朱に染めたジュディア。私は……

「ルナ、私は二百年待ってる。貴方を想い、美しいままの私で」

 私の背を抱く力が強まる。爪が食い込む程に……

「……返事は、二百年後に」

 私を離れ、自室へ向かうジュディア。その横顔に流れる一筋が、煌(きらめ)いていた。酷(ひど)いかも知れないが私は、彼女の想いを、今直ぐに受ける事は出来ない。

 部屋に戻ると、リバレスが私の肩に飛び乗った。全く……、寝てろよ。

「相変わらず、ジュディアは積極的ねー! いい加減折れたら?」

「お前なら、私が気安く頷けない理由を解るだろ」

 大きく頷き、自分のベッドに戻るリバレス。私も眠ろう。次に天界で眠れるのは二百年後だ。目を瞑ろうとした、その時、ふと視界に入るものがあった。月華(げっか)に照らされ、咲き誇るルナ草。フリーダムと名付けたその花を、私は忘れていた。

「お前とも、暫くお別れだな」

 私はルナ草を「保護」の神術で包み、窓から外に放った。術が解ければ花は大地へと降り立ち、根を張る事だろう。私の願い、「自由」は叶えられた。ありがとう。刹那、ルナ草が輝いた気がした。まるで、私の心の声に反応したかのように。

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